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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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カンバック!昭和商店街38<市役所>

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空襲後の航空写真を見てもらった人から、市役所はどこにあるの?といったご質問をいただいた。大正時代は高等女学院(中部東小学校 現 中央小学校に併設)の西にあった。本町の水谷さんからお借りした地図にも載っている。

 

昭和6年、市役所は現在の諏訪町へ移転した。戦前の地図と空襲後の地図を比べてみると、半円形の市役所前庭が分かる。被災することはなく残った。

 戦前

空襲後

昭和30年頃、未舗装の三滝通から諏訪駅に向かう近鉄線。その向こうに市役所が望める。 

昭和5年に着工6年5月に竣工した市役所は、当時の官公庁建物の左右対称と異なり、不対象形を基本としたモダンな建物であったと水谷さんはコメントしている。老朽化の為、平成5年に解体された。昭和30年頃の地図を見ると、新しくできた中央通りに東から市役所、公会堂、税務署、商工会議所、耕地事務所と並ぶ。四日市の中心地を目指していたことが伺える。

 

旧市役所跡地。ここは、図書館移転の候補地のひとつに挙げられている。


カンバック!昭和商店街39<公会堂>

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昭和10年、日本板硝子四日市工場の千歳町建設が決まる。工業都市四日市の先駆けである。翌11年は千歳町を舞台に“国際振興四日市大博覧会”が開催された歳になる。昭和15年の地図を見ると板硝子の北隣に公会堂が建っている。

会場案内図には、“大會場”その横には“迎賓館”が建つ。これが公会堂だ。まさに、博覧会を意識して造られたに違いない。

 

四日市公会堂は、昭和25年市役所の西隣へ移築された。

 昭和30年

昭和27年には中央通りを舞台に“講和記念四日市大博覧会(農機具博)”が開催された。市役所と公会堂が並ぶ様を誇示したかったに違いない。公会堂は、四日市市発展の象徴として千歳町(港四日市の発展)から幸町(市の発展)へと動いたのだ。

 内部は、大ホール、大小会議室、迎賓室等があり、文化事業等に利用された。

幼少の頃、母親に連れられて訪れた記憶が2回ある。アメリカの古着を売っていて、母親は、山のような古着の中からマンボズボン(ジーパン)を引っ張り出し、大きさを見るためホールの隅でズボンを脱がされた。もう一度は、警察の検挙物の展示で、刺青の入った皮膚が並べてあったのを覚えている。ホール内は天井が高く薄暗かった。公設市場も近く、母親に連れられてよく行ったと思うのだが、記憶はない。

昭和35年、市役所北に建った“市民ホール”にその役割を移した。公会堂の後ろに市民ホールが見える。

樹林社刊 四日市市の今昔 より

カンバック!昭和商店街<諏訪新道1>

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昭和35年7月9日、集中豪雨が四日市の町を襲った。諏訪公園の貯水池が完備してなかった当時は、しばしば町は水入りをした。辻さんはカメラを持って諏訪新道へ赴く。諏訪新道は戦後最も賑やかな通りだった。この道は何時頃からあったのか?

 

享保時代の絵図。東海道と辻で交わる浜往還。その左が南浜往還になる。もう一つ左に諏訪神社が見受けられ、そこから下へ野道のようなものが伸びている。これが諏訪新道の原型じゃないだろうか?

 

大正11年になると諏訪軌道と四日市鉄道に寄り添うように、諏訪駅と四日市駅とをつなぐ道路が通っている。諏訪町、沖ノ島、四ツ谷町、本町と真直ぐな道が諏訪神社から四日市駅へと伸びている。

カンバック!昭和商店街41<諏訪新道2>

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本町の水谷氏所有の絵葉書。“四日市市の今昔”樹林社刊より。解説にこうありました。

諏訪新道四日市郵便局電話分室前(沖の島町・大正14年)

 大正14年、四日市郵便局電話分室が沖の島(現在の沖ノ島町)に新築移転した記念に撮影したものと思われる。明治40年に完成した諏訪新道が、四日市の賑わいの中心となる前の様子である。

ここはいったい何処でしょう?諏訪新道が完成して20年ほど経つわりには、この道は新しく狭い感じがします。

 

大正初期の地図には、諏訪町と沖ノ島間の道路沿いに郵便局のマークが見受けられます。

 

ところが、大正11年8月のマップ(上が西、右が北方向)を見ると、通りから北へ入った左側に“電話文挽局”とあります。写真の影から想像すると、昼前に北向きに撮った写真ではないでしょうか。区画整理の度に移動したと思われます。

カンバック!昭和商店街42<諏訪新道3>

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大塚衣料店前から諏訪新道に向かって撮られた写真。竹で編んだかごを持って立っている老人。糠に埋まった卵が入っているのか?国道の向こうに弥生館の看板。“ジャズ娘に栄光あれ”昭和33年1月29日封切り作品で、山本嘉次郎監督、浜村美智子、小泉 博出演となっている。看板の下には小林硝子店、マルセ靴店が並ぶ。歩道は未舗装である。

 

これより少し前の1号線舗装工事の様子。かどや呉服店前から南方向を望む。現在のスワセントラルパーキングのところに“三重交通観光社・バスのりば”があった。私のいとこは、東新町から四日市幼稚園に通うのにバスに乗ってきた。ここで降りて諏訪神社を横断して通ったそうだ。狭い角地に切符売り場があったような気がする。こんなところにバスがよくぞ停まったものだ。

 

現在

昭和30年頃の航空写真とマップ。よく見ると、神社前の地域だけが1号線拡幅工事が進んでない。地権者との立ち退き交渉がうまくいかなかったのか?

 昭和31年~32年頃

昭和30年頃

空襲後の航空写真では、神社前の半円形の地域が最後まで頑張った。さて何かあったのか?近所の事ですので、聞いてみようかと思っています。

昭和21年~22年頃

空襲後の後片付けが進んでいる。何年頃か?焼け残った建物の屋根が、朝日にキラキラ輝いている。戦前の街並みが想像できる貴重な写真だ。

カンバック!昭和商店街43<諏訪新道4>

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西(神社前)から、東(三滝通り)へ。名古屋タイムスさんの新聞記事である。再々掲載!非常に良く描けております。

一番東、郵便局の上は、中部東小学校です。

 

カンバック!昭和商店街44<諏訪新道5>

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森さんからお預かりした写真。昭和41年8月の諏訪新道、港まつりの様子だ(再掲載)。港まつりは、商工会議所の”商品祭”で始まり、諏訪新道には多くの造り物や香具師が出て、賑やかな三日間だった。周辺の商店街も様々な造り物をして競った。祭りが近づくと晩御飯を食べた後、みんなが通りへ出て紙で人形などを作った。昭和30年代の事だ。伊勢湾台風以後、四日市祭りを吸収して”大四日市祭り”となった。

いちょうや、なかや家具店、東海銀行と並ぶ

右に三井銀行が建つ

午年にちなみ、の看板から歳が分かる。鈴木屋前

スワパーキングのところに三井銀行があった

※森さんの写真に、懐かしい建物があった。消防署だ。ここを見上げて中部中学校へ通った。左は税務署か?その間に高架化前の近鉄線が伸びているはずだ。これは、近鉄百貨店の屋上から北向きに撮った写真だろうか?

カンバック!昭和商店街45<諏訪新道6>

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前に、四日市郵便局電話分室が何処にあったのか?という記事を書いた。

 左、電話分挽局

四日市の100年に、四日市電話局 諏訪新道 昭和10年という写真が出ていた。「電話分挽局」と比べるとずいぶん立派な建物だ。

 

この建物が、新道通りの電話局か?

同じ四日市の100年。昭和18年町内ラジオ体操の写真。ここに電話局の建物を見つけた。ところが「子供も大人もひとつになって、町内の連帯感を強くした。電話局隣の空き地にて」と書いてあった。やはり電話局である。横の通りは諏訪新道 沖の島。川口理容館の看板が見える。

 

「旧四日市を語る 第十集」にこうあった。

旧四日市で新道といえば諏訪新道(辻といえば北町と南町の境の交差点というように)この新道には郵便局・電話局があった。電話局時代には南側と東側に大砲の玉を柱にして、それを鎖でつないだ柱があったが、金属回収で無くなった。その前あたりに川口床屋、その並びに『びんや』いわゆるガラス屋。そこが小林さんの家やった。

さて、空襲直後の郵便局。電話局の建物の配置を見て欲しい。外観は何とか保っているが、建物が二つあるように見える。これはナンだろか?

昭和29年には、現在の場所に電報・電話局として工事中です。

 


カンバック!昭和商店街46<諏訪新道7>

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前回ご紹介した昭和28年7月12日発刊の名古屋タイムス“四日市新地図”より。風媒社様よりお送りいただいた資料、再再掲載です。

「望みは高し“水郷ベニス” このドブ川がいつの日か」より 諏訪新道が紹介してあります 

銀行は七つ、商店街のところどころに新しい建物で威容を放っているが、商店街を分断する点で困ったものだと云っていた。郵便局は昔の兵舎のお古みたいなうらぶれた姿を道路に出っぱってさらし、完全に商店街を二つに区切って建っている。市役所に通じる大通りはまだ整備されていない。道の真ん中に約1間のドブ川が流れている。将来は三滝川の水を引き、ベニスのような水の都にするのだそうだ。このドブ川の上に映画のカンバンが一杯ある。地所代がほとんどいらないからだそうだ。何でも年に600円とか。セチがらい世の中ダネ。

右にボンネットバスが停まっている

諏訪新道は飲食店が少ない。客寄せの上からはミスだが、“うまいや”というのはヘノヘノモヘノの看板で宣伝に成功している。浅井というびっこのサンドイッチマンは浪花節狂、報酬なしで毎日エヘラヘラとサンドイッチマンをやっている。同じく大衆食堂舞子屋のサンドイッチマンも同類で女の恰好をして“日本一の美人”と張り紙をして歩き、二人とも町の人気者になっている。鈴木屋、岡田屋は洋品の大店、羽田も古い店、キャノンは1階カメラ、2階はちょいと気の利いた喫茶店。三重交通のバス乗り場の裏には松坂競輪の場外車券売場がある。ヨシズの下にヒゲ帽などをかむった大勢の若い男がごろごろしている。松坂からはレースのたびに放送する「イチバン」の「イ」にアクセントをおいた伊勢言葉である。

カンバック!昭和商店街47<謎の広告塔>

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諏訪新道に広告放送塔が立っていた。昭和30年代の事で、名古屋タイムスにも「広告放送にぎやか」とある。諏訪新道西から、東京銀行四日市支店角(現 スワセントラルパーキング入り口)・タケコシカバン店前・東海銀行四日市支店西(現 三菱UFJ銀行)・羽田洋品店角そして百五銀行角の5か所である。※追記 1号線三重交通バス停角にもあった。計6か所

 い勢屋の広告の向こうに郵便局

タケコシさん前の広告塔

 この形の広告塔は当時、都市部にあったらしい。この写真は映画の宣伝である。稲垣浩監督「黒馬の團七」。昭和23年封切り、大河内傳次郎主演の東宝映画だ。場所は東京だろう?

 戦争が終わって間もない雰囲気が出ている

これは、昭和25年の金融株式会社 光クラブの広告塔。垢抜けた雰囲気から、これも東京ではないかと思う。

 

これらは、ヨーロッパのデザインを真似たものと想像できる。映画「第三の男」に広告塔が出てくる。扉が開いて地下道へとつながる。諏訪新道を通るたびに、この下に秘密のアジトがあるのでは?と思っていた。

 

地下の下水へ

子供のころ読んだ漫画に「謎の広告塔」というのがあった。ピエロが人目を気にしながら地下通路へ入っていく。

ピエロの謎めいたイメージは、映画「透明人間」からきている。化粧を落として透明になっていくシーンは。当時、驚愕ものだったろう。

右側にもしゃれた広告塔らしきものが立っている

広告塔から考えてみれば、当時の諏訪新道は東京銀座並みの先進地であったのではないだろうか?

 

 

カンバック!昭和商店街47<諏訪新道8>

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往年の諏訪新道、昭和29年頃。

マップの右上を見ると、京町アーチ、サカエ屋本店、マルエイ、カトウ薬局と並んでいるのが分かる。

少し前の昭和26年。カトウ薬局東隣りに鈴木屋がある。向かい側右、ナゴヤ堂東に岡田屋が建つ。

昭和25年。愛汁屋(妙な屋号だ)喜代志肉店、トミナガ乳母車店、東京銀行と並ぶ。車道の区別がない。拡幅されて間もないころだろう。

昭和35年、日活映画、赤木圭一郎主演「電光石火の男」が封切られ、そのロケが、旧四日市港から本町、諏訪新道とあった。「へのへのもへじ」 のんきやのアーチ、道の南には、富士ホールパチンコ。

カンバック!昭和商店街<諏訪新道9>

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戦後、道路が拡幅され最も賑やかになった諏訪新道。昭和28年と43年の店舗の並びを比べてみました。

昭和28年諏訪神社前

昭和43年神社前

昭和28年中央部

昭和43年中央部

昭和28年三滝通側

昭和43年三滝通側

 

カンバック!昭和商店街51<札ノ辻>

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写真集四日市の100年より、雨の南町通り(昭和4年)ビクターの看板の辻を左へ折れると弥生座があった。

増田武夫氏の力作「東海道往来」を見ると、写真は右に“待合 玉川”左に“貸座敷 徳波”の間から北向き“札ノ辻”方向に撮られたものである事が分かる。この先左にあるビクターの看板は“時計貴金属 蓄音機の山内時計店”。この左右に延びる通りが拡幅前の柳通り(この先湯の山街道)である。そういえば山内時計店の向かいに南側洋服店が建つ。多くの店が町の賑わいと共に移動していた。

当時の東海道筋、札ノ辻付近の賑わいを彷彿とさせるが、写真は雨の降る静かな南町である。

カンバック!昭和商店街51<中町銀座>

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札ノ辻から浜往還を東へ、年末大売り出しで賑わう東中町通り(四日市市中町・昭和2年)左側は福引景品引換所。軒下には雪が消え残っている。

日の当る様子から、午後3時ころ、栄昌堂さんの東から港方向に撮られた様だ。泥濘を行く自転車、乳母車の子供、抽選場に群がる着物姿の人々、荷物を運ぶ大八車。人の出の割には子供の声だけが聞こえるような静けさだったのではないだろうか。昨夜まで降っていた雪が、京屋さん(沖ノ島の京屋さんか?)の横断幕を巻き上げたままだ。

昭和4年

中町銀座、懐かしい名前や、今でも営業中のお店が並ぶ。東から柿安精肉店、三上電機、鍛冶宗、栄昌堂、紅屋、大福餅・・・。静かな銀座通りである。

昭和43年

カンバック!昭和商店街53<札ノ辻2>

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四日市の100年より 舗装工事中の札ノ辻(四日市市竪町 昭和13年)当時はコンクリートミキサー車で道路を舗装していた。

昭和11年四日市大博覧会が開催され、四日市西駅が本町方面(北向き)に向かって建てられた当時。札ノ辻の賑わいが、本町へと移りつつあった頃の写真だ。札ノ辻を浜往還沿いに東方向に撮ってある。

上が北です

右から丸屋足袋店、ミキサー車の横に辻の石の標識、東海道の辻を越した加藤時計店の向こうには、岡田屋のアーチが望める。しかし、タイムマシンのようなミキサー車である。


//uptowns3.rssing.com/chan-2642147/article1176-live.html

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閑話休題 タイムマシン!

3月21日は、男の囲炉裏端の集まりでまち歩きがあり、北野保先生と1番街から本町方面へ歩かせていただいた。祭りの練りがどうやって諏訪の踏切の高架ををくぐることが出来たのか?郵便局と電話局の建物は違っていたのかなど、興味あるお話が聞けました。結果は、後日掲載させていただきます。

閑話休題 タイムマシン2

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また一人、中町銀座に出現!傘をさしている方。フーアーユゥ?

閑話休題 タイムマシン3

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逆タイムマシンが札ノ辻にやって来た!影の始末にオウジョウシタ。

時空異動機の冒険①表参道スワマエ

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3月25日月曜日午後4時32分、閑静な商店街 表参道スワマエに突如としてタイムマシンが出現した。折悪しく居合わせた“すわまえ食堂”のご主人は、その時の衝撃をこのように語っている。「ビックリしたなぁ もぅ!」

タイムマシンは着地の瞬間に地表で小さな爆発を起こし、カラー舗装の一部を採取して、そのまま立ち去ろうとしたが、マシンの状態が悪かったのか約150メーターほど機体を引きずってTag tagさんの前まで行き、そこでも小さな爆発を起こして消えた。おかげでカラー舗装は傷だらけとなった。

さて、時空移動機 四日市オールド9236号の冒険は、いよいよ始まる。乞うご期待!

付録:参考までに。すわまえ食堂さんの、今週の提供作品。メニューは毎週変わる。

時空移動号の冒険②表参道スワマエ2

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時空移動号が再び現れた。昨日の事である。すわまえ食堂のご主人が先日と同じ場所で、同じ格好で立っていると、すさまじい振動と共にマシンが現れ、先日の男とは異なる人物が立っていた。今度の男は足がやや短い。彼は緑 骨斗(グリーンホーネット)と名のり、後ろの部下をカトーと呼んだ。手前で作業をするジイさんはパートで、機械の修理や掃除から食事の世話まですべて任せているという。時給だそうだがどうやって計算するのだろうか?

諸々の説明の後、時空移動号四日市オールド25385900号は、小さな爆発を繰り返しながら、カラー舗装のあちこちをこわして消え去った。

マシンの今後の活躍に期待は高まるばかりである・・・って、いつになったら始まるの?・?・・・。

 

追記:マシンの男は、最後に一言、謎の言葉を残して去っていった。

「今夜ノエキサイト実行委員会ハ、オ通夜ガデキタノデ、オ休ミシマス」

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