昭和56年頃の熊澤館(図書館はすでに久保田町へ移っている)旧図書館は児童館として残り、その前(南)に熊沢館ができた。
現在、整備後のこども交流館
前回、絵葉書として掲載させていただいた(本町のみずたに氏提供)建物は、やはり旧図書館でした。
旧図書館内部
四日市市立図書館は、明治32年11月の発令された図書館令(図書館に関する最初の単行勅令)に基づき、9年遅れて明治41年四日市市第五尋常高等小学校(現在の中央小学校)内に設置された。その後、大正3年、四日市市役所内へ移された。大正5年6月に大正天皇即位大礼記念事業として諏訪公園整備と共に園内へ新築開館してから、本格的な活動を始めた。開館当初の閲覧人員は毎月2~30人にすぎなかったが、教育熱の高揚と共に閲覧者も漸次増加した。明治45年の資料によると蔵書数4,788冊、開館日数267日、一日平均閲覧人員192人であったものが、大正6年には蔵書数6,686冊、開館日数336日、一日平均閲覧人員4,431人となり、予算としての経常費も200円から約五倍の1,029円に充実している。昭和4年には熊沢一衛氏が昭和天皇御大典記念事業として、赤煉瓦造り(この本ではタイル張りではなく煉瓦造りとなっている)二階建て、一部塔屋付きの一棟を寄付し、戦後も憩いの諏訪公園とともに市民文化の中心的存在であった。
昭和8年(昭和7年の間違いでした)
平成30年
誓の御柱と市民壇が何に使われていたのか?戦争に向かう昭和7年、おそらく出征軍人の壮行式に使われていたのではと思っていたら、写真集「四日市の100年」に帰還兵式典の写真があった。未だ市民壇も造られてなかった頃である。
出征軍人の凱旋(昭和7年4月)
満州事変勃発後、半年で関東軍は満州をほぼ制圧した。写真は、軍事行動も終結に向かった頃、諏訪公園で加藤助役の祝辞を受ける帰還兵と出迎えの人々。
追記 Tさんから再び教えをいただきました。ありがとうございました。
誓上御柱→誓㞢(之)御柱
上に似た文字は「之」の篆刻文字で「㞢」です