昭和30年6月8日の16時ころ。辻さんは諏訪駅の改札口を出た所から東方向にカメラを構えた。近鉄線の短絡化が昭和31年9月だから、諏訪駅取り壊しの話が巷の話題になっている頃だ。諏訪駅を降りると右(南)に諏訪百貨店(スワマーケット)、左が駐輪場だった。正面に大きな映画館の看板が並んでいる。弥生館には志村喬、諏訪劇場には菅原謙二の顔が描かれている。映画は当時唯一の娯楽で、二本立てや三本立てが普通。上映作品は毎週変わった。右へ行くと諏訪劇場、左が公園へ向かう踏切がある。まっすぐ進むと三泗百貨店。駅の移転をきっかけにこのあたりも大きく変わることになる。
少しさかのぼる昭和30年5月中旬、辻さんはカメラを提げて、新しい駅建設中の中央通りへ向かう。嘗て辻さんは街の変遷を撮るというよりも、そこに暮らす人々の風俗を残したかったと語ってみえた。楠の木はまだない。子供が水たまりで遊ぶ。南に見えるのは水九印刷、右に農協があるはずだ。
同日、中央通りから西向きに見た風景。やはり子供が焦点になっている。遥か向こうに工業高校があり、そこから学生の集団が踏切を超えて下校してくる。嘗てここでは農業博覧会が開かれ、会場内を内部・八王子線が通っていた。
旧東海道から中央通り東方向を撮る。国道1号線が出来つつあり左には市役所が見える。女の子が走る。浜田小学校に通っていた私は、荒涼とした中央通りを横断して学校に通った。寒い季節は、鈴鹿山脈から吹き降ろす冷たい風に息を殺して走った。
30年5月27日金曜日15時過ぎか。この日はお天気が良かったので諏訪神社へ出かける。神社と公園の間の空き地で草野球を楽しんでいる子供たち。この写真が発表された当時、ここは諏訪駅跡地とあったが、稲垣写真館の電柱広告から拝殿北の空き地(現材の石山、誓の御柱が建つところ)と想像できる。稲垣写真館は公園の北、もう少し左側にあった。
この年、ずっしり思い一眼レフを提げた辻さんは、街に暮らす子供たちの様子を撮ることから始めた。