四日市の赤線地帯
昭和32年8月5日、美奈月旅館前を前から諏訪公園方面を見る。向こうに見える松林が諏訪公園の西側にあたる。暑い一日がようやく終わろうとしている。買い物帰りの奥さんとの会話が弾む。表で足を洗っているのだろう。当時はまだ未舗装の道も多く、外から帰るとよく足を洗わされた。上がりがまちに濡れ雑巾が敷いてあって、そこで「足を拭いてあがりなさい」といわれた。
ぬかるみにできた轍は、車より自転車やスクーターの跡が目立つ。美奈月旅館もその北隣のきものの水谷屋さんも無くなった。
この先、諏訪公園の北側周辺が春告園、この場所から左(西側)が港楽園と呼ばれた赤線地帯だった。昭和33年に廃止された。
戦後の町並みの雰囲気がよく出ている。
昭和33年7月24日、二番街の若紀久(移転)の向かい角を撮った写真。辻氏は移り変わる街の風俗や生活をカメラに収めた。当時の雰囲気が色濃く出た作品だ。飲食店の裏路地でくつろぐ女性たち。夏の暑い一日が終わろうとしている。開店までまだ少し時がある。
シンガーソングライターで、当時十六歳のポールアンカが「ダイアナ」でこの春、一大ブームを巻き起こした。ロカビリー三人男の一人平尾昌晃はダイアナを「君は僕より年上と」の訳でヒット。アメリカではエルビス・プレスリーの影響でカントリーからロックンロールへの動きが目立った。
昭和33年7月24日。現在の二番街、大学前あたりから西に向かって撮られた写真。この年の4月、売春禁止法が施行された。
この地域一帯を港楽園と呼ばれ、諏訪公園西の春告園と共に四日市の赤線地帯だった。
建物の一階ではこわもてのお兄さんが花札をしていて、二階へ上がるといくつかの小部屋があった。貧しい東北出身の人が多かったと聞くが、それにしてもお姉さんたちのこの明るい表情はどうだ。子供たちの遊び相手をしているようだ。
突き当りが駅前南北の通りに繋がる。