四日市宿の地図がある。1枚は寛文年間(1661年)。宿場を中心に町屋が道沿いに並んでいる。東海道沿いに諏訪神社あたりまで連なっているが、家屋の裏は田圃で新田町という名は見当たらない。
これは享保年間(1716年)の四日市宿。比較すると道が入り組んできていて、町の成長が分かる。四日市宿は、東海道と浜往還の辻を中心に発展してきた。港はとても大切な要素だった。地図の上の方を見ると、後に出来る柵のところが濱田地と宿場の境界になっている。新田町、江田町は浜田地から分かれてできたようだ。
漠然と思っていた。新田町は四日市宿の中だったと・・・。宿場外れであることを知ったのは、岡野繁松氏に東海道分間延絵図を見せていただいた時だった。20年以上前のことだ。しかし、決して宿場外の田舎ではなく、にぎわいは新田町、江田町、浜田村へと続いていた。辻を中心に陣屋、旅籠、料理屋、待合など宿場的雰囲気が強かったのに対して、新田町は、桶屋、櫛屋、仏壇屋など物を作りながら営む店舗が軒を並べていた。東海道解説にこのように書いてある。
四日市宿で最も旅籠の密集していたという南町を経て浜田村に入る。南町と浜田村の境界のあたりに、絵図では街道の東西両側から門柵のようなものが街道の中央方向に描かれている。これは四日市宿の南端、南の出入り口を示す門であろう。村とはいえ、絵図にある通り新田町、江田町などの町場が長く街道沿いに発達し、四日市宿同様の景観をみせる村であった。ちなみに、現在の諏訪神社あたりが、絵図の浜田村新田町に当たる。