昭和10年、日本板硝子四日市工場の千歳町建設が決まる。工業都市四日市の先駆けである。翌11年は千歳町を舞台に“国際振興四日市大博覧会”が開催された歳になる。昭和15年の地図を見ると板硝子の北隣に公会堂が建っている。
会場案内図には、“大會場”その横には“迎賓館”が建つ。これが公会堂だ。まさに、博覧会を意識して造られたに違いない。
四日市公会堂は、昭和25年市役所の西隣へ移築された。
昭和30年
昭和27年には中央通りを舞台に“講和記念四日市大博覧会(農機具博)”が開催された。市役所と公会堂が並ぶ様を誇示したかったに違いない。公会堂は、四日市市発展の象徴として千歳町(港四日市の発展)から幸町(市の発展)へと動いたのだ。
内部は、大ホール、大小会議室、迎賓室等があり、文化事業等に利用された。
幼少の頃、母親に連れられて訪れた記憶が2回ある。アメリカの古着を売っていて、母親は、山のような古着の中からマンボズボン(ジーパン)を引っ張り出し、大きさを見るためホールの隅でズボンを脱がされた。もう一度は、警察の検挙物の展示で、刺青の入った皮膚が並べてあったのを覚えている。ホール内は天井が高く薄暗かった。公設市場も近く、母親に連れられてよく行ったと思うのだが、記憶はない。
昭和35年、市役所北に建った“市民ホール”にその役割を移した。公会堂の後ろに市民ホールが見える。
樹林社刊 四日市市の今昔 より