二・二六事件が起こり、軍の政治介入が一層強まってきた昭和11年の3月25日から5月13日までの50日間、“国産振興四日市大博覧会”が開かれた。『新視点 三重県の歴史 毎日新聞社刊』 より
四日市港施設完成の事業として、国産振興・輸出の進展を目指して行われたもので、当時の市の一般会計に匹敵する70万円という巨額の費用が投じられた。入場者数は当初予想の40万人を大きく上回り、約125万人という大盛況となった。
さて、富くじではなくて、何を目玉に客を呼んだのか?
四日市商工会議所を母体に組織された協賛会には、総予想額の30%が充てられ「余興部の事業が博覧会中最も華やかなる部門を代表せるもの」として協賛額の54%を割いた。国際演芸場(別途 有料)のプログラムには「埃及(エジプト)人ハジアリーの謎の胃袋」「米国人ビーカイル嬢の空中よりの大飛び込み」(高い梯子の上から、油に火がつけられた桶に飛び込んだ。どうやらマジックではなかったようだ)「露西亜(ロシア)人イワンカロロフの怪力」「インディアンバーンの大危険術」「名犬の学術的実験と曲芸」と記録されている。まだまだ外人が珍しかった頃である。
もう一つの誘客の目玉として「生鯨館」があった。和歌山県太地町と提携して長さ3メートルと2メートルの鯨二頭を持ってこようとしたが輸送途中で死んだ。会期半ば過ぎに再び2頭運び込まれたが、またまた到着までに死んだので、このまま観覧に供し4万人近くが入場したと報告されている。
以前、知人が死んだ鯨を見たと言っていたが腐臭がすごかったそうだ。