<ゴールデンウイーク特集・幻の弾丸列車①>
昭和9年から18年まで、南満州鉄道のパシナ形蒸気機関車『あじあ号』は、大連港から首都新京までの710kmを8時間30分で走った。流線型をした車体の威容をご覧いただきたい。
全長約25.7メートル、高さ約4.8メートル、幅約3.4メートル、車両を引く動輪の直径はナント2メートルで石炭は1時間に3.5トンも必要だったため、人力ではなく粉砕されて自動的にボイラーへ送られていた。
この巨大車両を走らせるには、当時国内で線路幅の標準軌間だった1067mm(狭軌)でなく、広軌1435mmが必要だった。
巨大である
実は、この弾丸列車を国内から下関―釜山間の海底トンネルを抜け北京まで通す壮大な計画が立てられていたのだ。昭和7年に満州国が設立され、昭和12年盧溝橋事件が起きると、日中間の物資輸送量の増加に対処できるのかという危惧が生まれた。こうして、昭和14年、既に需要が大きかった東海道と山陽本線を使った東京から北京までの弾丸鉄道構想が生まれたのだ(この時点での計画では、弾丸列車の動輪は2メートル30センチだった。D51の動輪は1メートル40センチである)。そして「鉄道幹線調査会」が鉄道省内に設置されたが、大正7年 立憲政友会の原 敬により広軌案は却下された。しかし一転、朝鮮半島や大陸の線路幅が広軌であることから国内の基準路線(狭軌)と別に東京・下関間に広軌幹線を敷くことが必要ということになった。昭和15年、帝国議会において15か年計画が決定。用地買収と工事が開始された。
この計画は、戦争悪化のために中断したが昭和39年の東海道新幹線開通に生かされていた。ここに、島 安二郎と島 秀雄親子の尽力があったのだ。そして、島 安二郎は、明治期の13年ほど関西(かんせい)鉄道の四日市工場に勤務、鉄道技師として活躍していた。
追記:鉄道に関心のある方には申し訳なかったのですが“弾丸列車”を組ませていただきました。間違いがあると思います。訂正よろしくお願いいたします。