もうちょっと、あじあ号のことを書かせていただきます。
日露戦争(明治37年)に使った戦費18億2629万円余(当時の国家予算は2億5000万円)と、戦死者11万5600人の犠牲の上に辛くも勝利した日本が、ポーツマス条約によってロシアから得た戦利品は、樺太の南半分とロシアが管理していた遼東半島南端の関東州の租借権、それと長春から大連までの鉄道と付属地だけだった。「実験国家 満州帝国のすべて」笠倉出版社
こうして国策会社『南満州鉄道』は明治39年11月に創立された。その2年後、満州での日本人居住人口は13万人になった。「満鉄」に吸引されて現地で一旗揚げようとする人、建築や土木関係の人、ヤクザやゴロツキ、犯罪者などが一獲千金を夢見て大陸へ渡った。そして、太平洋戦争勃発前年には210万人に達している。
上野駅に模して造られたともいわれている始発駅の大連駅舎
さて、満鉄の「あじあ号」は、6両編成で、流線型の機関車のほか、手荷物郵便車・3等車・3等車・食堂車・2等車・展望1等車の順になっていた(前回の説明と少し異なる)。客車は冷暖房完備で車両端にはトイレと洗面所が1個づつ取り付けられており、2等と1等の座席は45度回転して窓の景色を楽しめるようになっていた。
展望車内
しかし、花形は何といっても最後尾車で、前から特別室(定員2名で洗面所と男女別トイレ完備)・1等車(定員30名)、最後尾が展望室(定員12名)になっていた。展望室は、豪華な肘掛け安楽椅子や二人掛けソファが置かれ、書棚とテーブルもあって手紙を書いたりカード遊びをしたり、マグネット式の囲碁も楽しめるようになっていた。
ロシア人のウエイトレスがサービスする食堂車
大連から新京までの料金は、1等30円90銭、2等19円60銭、3等10円90銭である。当時の日本の物価は、米10キロ2円30銭、ラーメン10銭だった。現在、米10キロ3,500円くらいとすると、1等46,000円・2等30,000円・3等16,000円くらいになるだろうか?但し、ほとんどの客は3等だったそうだ。
お洒落な新京のプラットホーム
門司から大連へは連絡船で渡り、1泊して翌朝、大連駅発の「あじあ」に乗ると8時間30分後の夕刻には新京(長春)へ着いた。
新京(現 長春)の東1条通り
四日市の方が宿泊された新京のヤマトホテル