大正10年11月、四日市鉄道は電化された。三重鉄道(三重軌道)も、四日市〜諏訪間を廃線にして、ここを伊勢電鉄(現・近畿日本鉄道)が買収し電化、昭和4年1月30日に四日市〜桑名間が開通することになる(両鉄道の始発は諏訪駅と諏訪前へ移る)。
合同駅は昭和3年に取り壊されたが、この駅舎に並んで北側に車庫があった。大正10年9月25日、出来上がって1年ほどしかたたないこの車庫に台風が襲い、庫内の東京電車鉄道から買い受けたヨトⅠ号の上に倒壊したことがあった。その後、車庫は昭和18年頃までバスの修理工場のような形で存在していた。
下図は、大正14年7月現在の時刻表だ。
四日市鉄道
三重鉄道
四日市駅は合同駅だが、諏訪駅(四日市駅〜0.6哩)は東海道の踏切のすぐ西方にあり、三重鉄道の諏訪前(四日市駅〜0.5哩)は、東海道の踏切の東側にあって位置がずれていた。
それにしても朝7時20分には湯の山行の電車と内部行きのコッペルの列車が同時にスタートし、四日市〜諏訪間まで街なかを競争していた。それに、朝6時25分と10時27分には二列車が同時に並走して来てゴールインしている。そのほか1分違いの発着の列車も一緒に並んで走ったかもしれない(見たかった!椙山先生、ロマンでございますぅ)。
補記:四日市駅から始発の両列車は、朝日を背に それとなく競うように並んで走る。南側の浜田方面は一面の菜畑、黄色一色である。通勤客の中から『抜いた、抜かれた』の小さな声が上がる。
伊勢電鉄本社(現・本町プラザ 昭和3年完成)の屋上から東の海側(省線四日市駅付近)を眺めたこの写真は昭和5年頃の撮影。すでに前述の軽便鉄道の総合駅舎はなく、伊勢電の101か111型らしい桑名行が善光寺山門前の急カーブの護輪軌篠(脱線防止のためのガードレール)をきしませて西(諏訪駅)へ向かっている(写真①)。
昭和5年頃撮影
中央の建物は、四日市駅西駅の駅舎(写真②)。前には郡部行の郊外バスが3台(写真③)、その向こうにタクシーが1台背を向けている(写真④)。バスの下方に見える長屋(写真⑤)は、合同駅解体後も残された軽便鉄道の車庫。西駅の手前には伊勢鉄道時代タンクロコに使った給水塔が見える(写真⑥)。この給水塔はコンクリート製で戦災後も残っていた。西駅右寄りに関西線のホームにわたる陸橋(写真⑦)があり、さらに東駅へ続く旧ホームへと続くのがわかる。
西駅の右、ホーム上屋の下によく見ると名古屋行きの客車が止まっている(写真⑧)。客車の向こう側の煙突(写真⑨)は関西鉄道四日市工場の跡。西駅と東駅の中間の遥か彼方の海に汽船が浮かぶ(写真⑩)。
まだ、本板硝子の3本煙突も石原産業の大煙突もなく、彼方に松原(写真⑪)が突出(その先端が後に石原産業となる)。石油コンビナートとか大気汚染やらで一躍悪名をとどろかせる以前の、昭和5年頃ののどかな風景であった。