昭和14年11月6日、第4回鉄道幹線調査会が開かれ、島安次郎は説明時間の半分以上を広軌問題について述べた。明治以来、彼の持論であった広軌論(1435mm)は、国際的見地からも当然のことと認識されるようになってきている。島安次郎は、広狭軌の工事費がほとんど変わりないことを強調したうえで「広軌となすにおきましては、速度の点において、特急列車所要時間を東京大阪間四時間半、東京下関間九時間程度に得らるるとのことでありまして、ダイヤ作成上におきましても、きわめて好都合となり、朝東京を出発すれば、翌日の夕には新京に到着することも不可能ではないことになるのであります」
ところが、この時点でも未だに決定されていなかったのが、名古屋と京都間ルートであった。弾丸列車⑭でも述べたが、技師の竹内外茂氏はこう語る「幹線調査会として当初予定していたルートは、名古屋から四日市へ行って、それから延長二十三キロのトンネルで鈴鹿山脈を突き抜け、三上山という近江八幡の手前で大津へ出て京都へ行くルートを計画していた」ところが、鉄道大臣の永井柳太郎から横やりが入った。「石川県出身の永井さんが鉄道大臣になったばかりに米原ルートになってしまった。米原なら北陸がぐっと近くなる。わたし(竹内)も石川出身なのだが、しかし米原周りだという手はない。だって、二、三十分も遠回りになるのだから絶対に四日市ルートをとるべきだと言ったんだがね」
そして、幹線調査課内では京都抜きの意見も出されている。「名古屋から大阪へ行くには京都へ寄らないほうが早い」ということで、早々とそのコースでトンネルを掘った。その廃墟が京都南に残っているそうであるが、どこだろう???
竹内は現在の新幹線と比較してこう述べている「我々が計画していた二十三キロの鈴鹿トンネルがもし出来ていたら、現在、米原で雪に悩まされて遅れることもなかった。名古屋で氷を落とす手間もはぶけた」。鈴鹿トンネルで直接京都に結ぶプランは「昭和三十九年開催予定の東京オリンピックに間に合わなくなる」ので工事期間の短い米原ルートに決まった。