昭和15年の「鉄道幹線調査委員会」で発表された幹線ルートについて竹内外茂氏は話している。
「その当時、こうあるべきだと思って、やろうとして出来なかったことは、予定していた電気機関車から『蒸気機関車にしろ』と変更されたことと米原ルートに変えたことですが、この二点を除けば、現在の新幹線は我々が当初計画した構想の“生き写し”ですよ」と話す。
そして、完成予定である15年先の昭和35年を見込んで作られたダイヤには、
東京を6時20分に出発した特急列車は9時間後の3時20分に下関に到着、50分の待ち合わせ時間を経て連絡船に乗り換え、7時間半をかけて深夜の11時40分に釜山に入港する。再び50分の待ち合わせ時間をへて朝鮮鉄道に乗り換え、京城に着くのは東京からちょうど丸1日たった2日目の午前6時20分である。10分間停車したあと、黄海に沿ってさらに列車は北上して、満州との国境駅、安東に着く。ここで税関検査の為30分間停車し、その後、満鉄の路線に乗り入れる。
やがて、奉天には、この日の夕方6時に到着し、10分間の停車中に列車は2つに分割される。北へ向かう列車は、満州国の首都である新京には同日午後9時45分に到着する。一方奉天から南下する列車は、ここで中国の国境へと向かう高新線へと乗り入れる。やがて渤海に出て、遼東湾沿いに走ると、国境の駅 山海関に着く。ここでやはり税関検査の為30分停車し、その後中国の華北交通線に乗り入れ、しばらく走ると終着駅の北京に3日目の午前7時30分に到着する。
建設に必要な規定などほぼ決まり、いよいよ、新幹線は着工されようとしていたが、日本を取り巻く情勢は一段と緊迫の度を増していた。