島安次郎は明治3年、和歌山県の薬師問屋に生まれた。四人兄弟の次男である。店は、商業地であるお城の北、鷺森別院前の通りにあった。屋号を「島喜」といい和歌山県薬業誌には、父喜兵衛について短い記述がある。「島喜兵衛、安政年間の開業。世事に通じ、よく業界に尽くした人」。温厚な人格者だった。
店は間口が三間あまり、入って右手が奥に通じる一間の細長い土間、左手は畳が敷かれた八畳ほどもある店座敷。店の奥の板の間では、使用人たちが薬研を使ってしきりに薬種をきざんでいた。その奥には黒焦げのサルの頭がガラス瓶に入っており、黒焦げの虎の頭も大切に仕舞ってあった。
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少年期の安次郎は、わりあい科学に近い薬種業の家に育ったことが大きな影響を及ぼしている。炭化物、黒焦げの物には、健医剤としての効きめや、収歛剤(しゅうかんざい)としての効き目があることを知る。ここで思考をめぐらす頭脳は次のような推理を浮かべたかもしれない。薬効の本質は炭化物で、サルであろうが虎であろうが本質は変わりがない。この考えが少年期に育まれていれば、もはや科学だった。薬種をさまざまに処方することの不思議に子供のころから接していた安次郎は、この時代には貴重な科学的精神の発生の秘密をうかがうことができる。
安次郎が十五才のとき、父喜兵衛は座敷に座らせて言った「兄は店を継ぐ、お前は独逸(ドイツ)学協会学校へやろうと思う。そして、東京大学医学部へ進め」性格は物静かで温厚だが、小さいころから物の尋ねぶりに無駄がなかった。「はい、そうしたいと存じます」こうして安次郎は東京へ出ることになる。
明治33年秋、四日市発13時50分 加茂着16時4分 16時7分湊町行きに乗り換える 安次郎を乗せた「磨墨(するすみ)」は、暮れかかる大和路を湊町(現 難波)に向かって強い振動音とともに驀進していた。湊町着17時45分(明治37年3月の時刻表参考)