大隈重信公ともあろう大物が、なぜに官設鉄道を批判し、一民間の関西鉄道擁護に回ったのか?ここで大隈重信について調べた。(ウィキペディアより)
関西鉄道の風刺画「さあこうやって貝焼くをしてしまって それから又腕比べだ」官鉄が受けの立場か?
佐賀藩の上士の家に生まれた。明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府に抜擢され、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治14年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。(官営鉄道批判は、この頃の発言と思われる)
当時の亀山駅構内「鬼鹿毛」の入れ替えをしているのは「望月」関西鉄道略史より
明治14年の政変とは何だったのでしょうか?再びウィキペディアさんにご登場です。
明治14年に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議員内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上薫が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門門下生を政府から追放した政治事件である。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の明治23年に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。
大正3年には再び内閣総理大臣となり、第1次世界大戦への参戦、対華21か条要求などに関与した。また早稲田大学の創設者であり、初代総長を勤めた。
関西鉄道「雷光」
憲法制定論議で敗れ、一時 野に下された大隈重信の政府に対する恨みだったのでしょうか?(思い過ごしなら ゴメン!)