明治36年11月20日協定解除になると、関西鉄道は、運賃の低減に積極的に乗り出した。鉄道作業局(官営鉄道)も運賃値下げに応じて名古屋~大阪間の旅客運賃を値下げした。翌37年1月11日関西鉄道がさらに運賃を低減すると、鉄道作業局でもこれに対応して運賃低減を行い、貨物についても誘致に努め、競争は激化の一途をたどった。
そして、関西鉄道では、運賃を低減するばかりでなく乗客にうちわや手拭いを配りついには弁当まで景品につけるという事態を招いた。
名古屋において東京の角力と関西の角力が合同興行を行ない、次の興行地大阪へ行くのに、関西角力は関西鉄道を利用し、関西鉄道では車両の外側にしめかざりなどをして楽隊まで乗せて大阪入りをした。東京の角力は官営鉄道を利用したが、もし関西鉄道に乗ったら東京へ帰るのに官鉄に乗せてくれないと困るという理由からだったという。
常識外れのこの競争に鉄道創業の功労者 大隈重信は非は政府にあるとして政府を攻撃した(こんな時、不利な立場は民営であると思ってた。意外な展開デアリマス)。
関西鉄道の広告に、奈良の月ヶ瀬梅林の宣伝があったので調べました。
名勝 月ヶ瀬梅林
元久二年(1203)に菅原道真を産土神(うぶすなかみ)として真福寺の境内に祭祀し梅樹を植えて神霊を慰めたのが始まりである。江戸時代には、紅染の原料「烏梅」(うばい)が、京の都へととぶように売れたので、村人は梅樹を競って栽植した。
文政年間斎藤拙堂の「梅渓遊記」で紹介され、頼山陽をして、「非親和州香世界 人生何可説梅花」と嘆賞せしめたように梅花の里と化し、奇岩、怪岩や山嶺重畳として、渓流に迫る絶景となった。以来、数多くの文人墨客の来訪するところとなり、明治に入って益々天下にその名勝を知られるに至った。
現在新しい月ヶ瀬湖を中心に早春の梅花と共に四季を通じて自然景観は、人々に心の安らぎを与えている。大正11年11月7日名勝に指定された。
月ヶ瀬村教育委員
関西鉄道 雷(いかずち)