明治41年、第2次 桂太郎内閣になると、後藤新平は南満州鉄道総裁から、逓信大臣と鉄道院総裁を兼務して入閣した。『第1次桂内閣の時、鉄道国有化をすすめたのは自分であり、第2次桂内閣で後始末をさせていただくのも自分である。黒井船来航以来、日露戦争を経て躍進を続ける日本産業を背負って立つのはまさに鉄道であり、鉄道事業を成せるのは自分以外にない』と自信の程を見せている。
後藤新平の発想は、まず、断片的なメモから始まるのが常であったという。あたかも閃光が発するようにひらめく。後藤はこうして得た断片をそこらにある紙片に書きつけ、更に断片を並べなおして組み立てていく。
アイデアが明滅して、次から次に湧き出してくると とどまらず興奮状態になる。さらにその熱気の去ったのちに現状とそれらアイデアを照らし合わせ、優先順位が定まる。目的が一点に定まり、断片が再構成されると目前の問題点がえぐられて露出する。それを突破するために手段がさらに考えられて、策が定まる。
となればもはや、この当面の策の成否が、全局面を制していることは明白であり、
「断固として成すべし」
と不動の中心点を貫く命令が発せられる。
何となくKJ法を見ているようです。川喜多氏が「発想法」を現したのは昭和になってからなので、この頃、KJ法はまだなかったはずです。