“たいじゅ”さんからコメントをいただき、話が弾んだ。『突っ込まないでください』のお断りあがったが、あえて知っていることを書きます。
内部・八王子線。なぜ八王子・内部線と呼ばないのか?北野保様は、結構このことにはこだわってみえる。なぜ内部方面へも線路が敷かれたのか?軍の施設があったからではないか?とか、ロマンを乗せて想像は広がる。
下総人さんからお借りしている「鉄道資料」という本がある。ここに椙山先生の投稿があり、5月22日の稚拙ブログ https://blog.goo.ne.jp/hotokeya/d/20200522 に載せたが『三重鉄道 沿線案内』というマップがあった。
国鉄四日市駅に合同駅がある時代だから、大正時代と思われる。下総人さん曰く、塩浜に海軍燃料廠があり、そこから海軍道路で西へ上る道が内部線と交わっていた。これは昭和のはなし。
マップを見ると大正時代の内部線は、風光明媚でのどかな雰囲気だったと想像できる。泊山公園には、さくら、梅、菖蒲が四季折々に花を咲かせる。(現在の南部丘陵公園がその一部か?)終点の内部駅を降りると、内部川には鮎の名所や蛍を見るところもあり、川で採取した砂利が駅に持ち込まれて四日市へ出荷されている。
東海道沿いに線路を走らせ、そこから内部川までのばしたのだろうか。