下図は“清張ミステリーと昭和30年代”から取らせていただいた。この表をみると全国で映画館数が最も多かったのは昭和35年の7457館になる。前年には国民一人当たり年12回映画を観に出かけている。ところが平成7年になると1776館に減っている。76%の劇場が消滅した。
大宅壮一氏は昭和33年レポートした『日本の企業』の中でこう書いている。昭和26年に三つの映画会社が合併して発足した東映が、発足当時と昭和32年とを比較すると資本金が11.7倍の21億円、収入が上半期同士の比較で7.3倍の35億3000万円、そして利益が同じく35倍の10億円にまで達し、その急成長ぶりは当時の企業の中でもナンバーワンであったという。当時のお金でである。
小学校時代は、映画といえば時代劇だった。中村錦之助や大川橋蔵ばかりでなく、大友柳太郎の丹下左膳や怪傑黒頭巾もの、伏見扇太郎のりりしい青年剣士もの、そして渋い片岡千恵蔵や市川歌右衛門の十八番シリーズなどさまざまな想いなどもそれにつれて即座によみがえってくる。
四日市の諏訪駅を降りて、狭い路地を抜けたところに諏訪劇場はあった。毎週土曜日の夜は、おやじの後をついて諏訪東映へ通った。
昭和43年の地図
スワ劇場の裏手に経営者である水谷氏の邸宅があった。昭和31年までは、オカダヤと助六寿司の間を八王子・内部線が通っていた。