諏訪劇場(現在のローレルタワーシュロア四日市)の歴史は比較的新しい。ローカル映画館史 久保 仁著より
江田町(現 諏訪栄町)の近鉄諏訪駅のそばに「近畿館」が開館したのは昭和21年4月25日。東宝スター・佐伯秀男、光川京子の実演を興行、続いて舞台ものばかり公開していたが、4か月後の8月29日から「キャピタル劇場」と改め、アメリカ映画「呪ひの家」(昭和19年)を上映して洋画専門館となった。
しかしこれも23年秋に大改造、四日市映画演劇株式会社(代表 水野栄三郎)経営の「諏訪劇場」となり、県下最大の劇場となって大映作品と歌謡曲の実演では県下最高の興行収入をあげていた。県下では、津に開館した曙座と1位、2位を争っていた。
戦争直後から昭和33年にかけて、歌謡曲や軽演劇が映画館で併演され、これが大当たりとなった。戦争で大都市の劇場の多くが消失して芸能人が地方へ流出した。地方の人はあこがれのスターが目の前で見られるから劇場へ殺到する。芸能人たちは食糧難の都会を脱出して田舎でうまいものに舌鼓が打てるから、お互いに大うけとなった。田畑義夫、小田実、春日八郎、美空ひばりといった人気歌手が人気を呼び、1興行(1日3回上演)で3000人〜5000人という観客を集めた。
昭和32年4月27日諏訪劇場で「美空ひばり歌謡ショウ」があった。
昭和37年「四日市東映」となる(この時点で経営者は、水谷豊助氏になったのか?)が、昭和43年2月に取り壊して跡地はジャスコが買収した。
写真は空襲直後の空撮である。米軍が写したものと推測されるが、この時にはすでに諏訪劇場が建っている。四日市空襲が昭和20年6月18日、終戦が8月15日、近畿館の開館が昭和21年4月だから、終戦直後に劇場が造られ、空撮は完成したばかりの21年4月以降ということになる。瓦礫の中に、いち早く諏訪劇と諏訪駅ができた。
<追記>
下総人さんからオート三輪の話がでた。「電光石火の男」のロケ地に止まっていたからだ。辻さんがこんな写真を残してみえた。メカニックな風貌のオート三輪だ。