前田さんから借用した“週刊朝日”の昭和32年3月17日号には、当時ならではの興味深い記事が掲載されている。筆者である浦松佐美太郎氏には、大変申し訳ないが一部を紹介させていただく。
いまは列車の東海道線は名古屋から岐阜、大垣と北へ回っていくが、しかし国道第1号線の東海道は、今でも四日市を通り、鈴鹿峠越えをやっている。その昔の伊勢街道との分岐点である追分は、今も四日市の市内に残っている。
ここに立っていると、あとからあとからと続く自動車の列に驚かされる。その大部分が大型トラックなのだ。これらの大型トラックが夜も昼も走り続けている状態を見ていると、国道1号線の東海道も、日本の産業を養う動脈としては、すでに細すぎるということが痛感される。
この追分の一帯は、今では四日市の住宅地区となっているのだが、ここから少し北へ寄ったところに、水田の間を海岸地帯へと向かう一直線の道路が走っている。大きな高圧送電線の鉄塔と並行したこの道路を、土地の人たちは海軍道路と呼んでいる。この道路の突き当りに広がる六十数万坪の埋立地に、敗戦の日まで海軍燃料廠があったからである。もちろん爆撃にさらされて、惨憺たる姿に変わり果てていたのではあったが。
今もその残骸が赤くさびたまま残っている。だがそれらは片端から破壊されつつある。そして破壊された跡では、ブルドーザーがうなりを上げて動き回り、杭打ちのハンマーが大きな響きを立てている。昭和石油がここに大製油所を建設する工事を始めているのだ。