前田さんからお借りした昭和32年の“週刊朝日”から“新・日本拝見 四日市将来の大工業都市”浦松左美太郎氏記の記事がある。
古びた木橋、常夜灯、松並木と、舞台装置の揃った旧東海道。羽津付近の風景(常夜灯??はて何処かで見たような??)
海軍燃料廠跡地に建設中の昭和石油。その土地の一角には三菱化成のカーバイト工場や外国資本のモンサント化成が建っている。
そして四日市にはもう一つ製油工場がある。これは大協石油の工場であって、四日市の工場を二つの工場で挟む形になっている。その大協石油でも、さらに工場を拡張する計画を持っている。石油化学工業の将来を考えるとき、四日市は、さらに大きな工業都市になるのではないか。
石油化学と結びつく化学繊維工業にも、四日市は根強い伝統を持っている。東洋紡績はここで生まれ、ここから大きくなっていったのである。そのほかに幾つもの綿紡績工場がある。羊毛の紡績では四日市を中心とする三重県が、全国一の生産高を持っている。だから四日市の港では、羊毛と綿花の輸入が大きな額を占めている。
四日市は重要な貿易港でもあるのだ。輸出では板ガラス、陶磁器が目に付く。板ガラスは港の正面に大きな工場があるからだが、陶磁器は小さな工場が集まっている。
東洋紡績(四日市市の今昔 樹林舎より 写真提供:水谷宣夫氏)
明治15年に第9世伊藤傳七が三重郡川島村で操業を始めた三重紡績所が始まりである。後を継いだ第10世傳七は、第一国立銀行の頭取であった渋沢栄一の提案で、明治19年に四日市港に近い三滝川に面した土地に三重紡績を建設した。大正5年には大阪紡績との合併を経て東洋紡績が誕生した。工場の中を関西本線の線路が通っている。(大正5年10月、インドから輸入された綿花?からペストが発生した。市は浜一色一帯を亜鉛版で覆い消毒を施し、ペスト禍は半年余りで終息した)
大正11年の地図では、三滝川北側の工場は建設されていない。