安芸の宮島様から、2018年7月7日付稚拙ブログにコメントが届いております。
諏訪栄町界隈の生き字引でいらっしゃる当ブログ、いつも拝見しています。
四日市に参りましてはや5年、街の発展や人々の軌跡を学ばせていただいております。
さて、本文には新四日市駅(西駅の開業当初の駅名)が三重軌道の駅であるかのように記述されておりますが、本文中にある大正11年当時の西駅は伊勢鉄道(大正15年に伊勢電気鉄道に改称)の終着駅であり、三重軌道とは接続していなかったようです。
三重軌道諏訪-四日市間の廃止が昭和2年、四日市鉄道諏訪-四日市間の廃止が昭和3年とのことなので、その頃まで合同駅は存在したと思われます。
合同駅が取り壊されるきっかけは、大正14年の熊沢一衛氏の伊勢鉄道社長就任でしょうか。四日市-津間の7/短絡という目的を果たした後、名古屋・伊勢神宮への延伸という事業は熊沢氏の力に拠るものが大きいでしょう。氏以外にこの短期間で四日市-諏訪間の軌道譲渡(しかも2社から)を成立させるのは不可能ですから。
また、上記伊勢鉄道四日市-津間の開業は大正13年のようですが、開業当時は「新四日市駅」の名称だったようです。(合同駅は「四日市市駅」)その後「四日市駅」に変更されたようです。
「西駅」は線路の東側に駅舎がある国鉄の四日市駅に対しての呼び名であり、国鉄四日市駅の西出口では無い点にもご留意いただきたく存じます。
善光寺カーブを曲がって諏訪駅へ向かう伊勢電鉄。昭和5年にはすでに合同駅はなくなっている
確かに“合同駅が取り壊され西駅が完成”と、恰も合同駅の代わりに新しく西駅ができたような書き方でした。ええかげんでスンマセン。Webサイト「幻の北勢軽便王国物語」には、合同駅が大正5年3月から昭和3年まであったと記してありました。確かに安芸の宮島さんのおっしゃる通りです。西駅完成は大正11年ですから、7,8年間は二つの駅が存在したことになります。
昭和3年に、伊勢電鉄の熊澤一衛氏が四日市〜諏訪駅間を買収、三重鉄道と四日市鉄道は諏訪駅が始発になった、従って合同駅もなくなったということでしょうか?この時、西駅は関西線(国鉄)と伊勢電鉄(後の近鉄線)の合同駅舎になっています。
それと、東の四日市駅に対して、西駅は別の駅として捉えられていたのでしょうか?継ぎ足して建てられたり壊されたりする四日市駅の歴史が垣間見えるようです。
<追記> 下総人様 昭和47年 四日市公害裁判結審の日の空撮です。下総人様の屋敷跡は見られるか?微妙なところでゴザイマス