昭和32年発刊の週刊朝日。浦松佐美太郎著の日本拝見・四日市の投稿の最後は、こう締めくくってありました。
丹羽文雄が小説家になることを決心して生家の寺(崇顕寺)を家出したのは、昭和7年のことである。その時のことを彼はこう書いている。
「4月10日の夜10時ごろ、それまで用意しておいた行李(こうり)を持って、こっそり家を出た。菜の花が一面に咲いている畑の間を通って駅へ運んだ。そして翌日の汽車で家出をしてしまった」
その寺は、彼の言うところによれば「四日市の南のはずれにある」ということになっている。だが現在(昭和32年)では、近鉄駅前の70メートル道路のすぐわきなのだ。国鉄の駅に行く間に、一面の菜の花まで見られようわけもない。家、家、家のつながりであり、その間を貫いているものは、中心街になることを予想されている大道路である。
丹羽さんは、春の夜10時頃寺を出て、戦後拡幅される中央通りに沿って国鉄四日市駅へ向かったものと推定される。これはそれより10年ほど前の大正11年の地図であるが、当時、両脇は一面の菜畑だった。花が終わり油を取るための実が採れた後、田植えの準備にかかった。人目を避けて諏訪駅へ行かず、田圃道を国鉄四日市駅へ進む。やがて新四ツ谷町に入ると、人家が並ぶところへと入る。丹羽さんその夜は、駅の待合室で朝の汽車を待ったのだろう。
昭和11年の国鉄四日市西口駅前
(戦後)25年の間に、四日市はこれだけの変化をとげたのだ。
これだけの変わりようを示した町は、そうたくさんはあるまい。これから先の25年の変化は、もっと大きく、もっとテンポが早いことだろう。将来の大工業都市四日市は、このようにして成長しようとしているのである。日本の希望を背負って、つつがなく、たくましく育って欲しいと祈っておきたい。