東海道分権延べ絵図(訂正:東海道分間延絵図)より 阿瀬知川と十里の渡しの位置に自信がござんせん!
左上に燈台が描かれています。十里の渡しがあった場所でしょうか?
東海道五十三次にある橋は 昌栄橋(訂正:開栄橋)か?左に見えるのは十里の渡しか?謎が謎をを呼びます。しかしここにははっきりと三重川(三滝川)と書かれています?
四日市港ができる以前(明治6年前)の風景が水谷百碩画“四日市十二景”にあった。四日市市立博物館刊「知られざる四日市の面影」より
右の橋は開永橋(よう間違う:開栄橋)か?
“旧四日市浜之景”明治初年頃の四日市湊を描いています。手前の松林の中には瓦葺の高い建物が描かれています。これは灯明台(灯台)で、天保時代に建てられました。その左に宮(熱田)との十里の渡し場があり、旅人はここで船に乗り降りしました。この場所が後に四日市港(稲葉町・高砂町)になります。同じ構図の絵が、稲葉三右衛門の子孫の稲葉家にも残されています。
この燈台が、工事途中の写真にも載っています(写真左上)。
“昌栄新田潮干狩り”昌栄新田は現在の尾上町から末広町にかけての地域です。画面左手には高砂町から伸びる四日市港の防波堤が描かれています。右手には“浜野景”にも描かれている松原があり、おだやかな陽気の中で、人々が潮干狩りに興じている様子が描かれています。
港から南を見た絵です。のどかな風景が広がります。
明治44年の旧港 十里の渡し(燈台)のあった場所が 想像できます(その場に居なかったので確かではありませんが…)