海水浴がレジャーとして庶民に普及したのは20世紀も後半になってのことだった。それまでは、塩湯浴み(しおゆあみ)などと呼ばれ、健康や療養のため海水に浸かる程度だった。
橋の向こうが昌栄新田
四日市の海水浴場の歴史は、明治17年5月の「伊勢新聞」に「海水温浴場高砂町に設立」の記事が見られるが、これは医療施設だったらしい。富洲原から午起海岸にかけて海水浴場として整備され始めた記事が明治40年6月1日付「伊勢新聞」にある。「四日市海水デー」“四日市の海浜昌栄新田において海水浴を開始せしより云々”とあるので、明治37年にはすでに海水浴が行われていた。
特に人気のあったのが富田浜海岸だった。明治40年7月から関西鉄道が富田浦駅(現富田浜駅)を臨時駅として開設、午前と午後の計4本が臨時停車した。駅から浜までの50メートルの両側には土産物屋が並び、浜には掛茶屋もあって大賑わいだった。名古屋からの唯一の海水浴場だったので、別荘も多く、旅館も洋館建てが多くみられた。
有名だった!富田浜に建つ霞洋館とは?
Web霞洋館より
四日市市内では明治41年に出来た海員掖済会(えきさいかい)前の稲場町の砂浜が賑わい、
稲葉町の海水浴場風景
大正11年からは午起海岸が整備され、翌12年には霞ケ浦海水浴場 遊楽園が開設されている。また大正時代以降になると、市内はもとより名古屋・愛知・岐阜・奈良・大阪・京都方面の海浜学校が開設されるようになった。
追記:海員掖済会とは・・・前島密氏ほか明治政府の要人や海運界首脳約50名が発起人となり、当会を設立したのは、明治13年(1880年)8月のことでしたが、実質的な事業の開始は、翌14年6月、東京府南品川にある心海寺の一部を借り受けて「海員寄宿所」を開設したことに始まります。
当時の船員は、厳しく劣悪な労働環境の下、江戸幕府以来の船方の悪習をそのまま引きずっていたため、これを早急に是正し、生活習慣を改めさせなければ、近代的な海運の発展が望めないと考えたからでした。
その後、宿泊の提供に加えて、乗船の斡旋、船員の教育訓練、遭難船遺族への弔意・慰安などの事業を行なう一方、船員に対する医療の提供など、幅広く福利厚生に努めてきたところです。
これらの事業は、第二次大戦後、国の直轄事業や他の公益法人の業務として引き継がれ、掖済会には主として医療事業が残ることとなりました。
これを契機として、掖済会は、地域住民の皆様方のための医療・福祉に専念することとなりました。ウィキべディアより