四日市大学が四日市学研究会の報告書として出版された“なぜ都市計画は四日市公害に無力だったか”2011年発行 に富田浜のことが書いてあった。
昭和30年、四日市市から都市計画に関する調査依頼を受けた早稲田大学教授石川栄耀教授は「四日市総合都市計画の構想」で講演をしている。「富田海岸を埋めることは反対です。絶対に都市計画家として反対であります。」「およそ都市というのは働くところであるとともに住むところ、人間が住むという場所は自然と人生が交錯した美しい都市を必要とします。四日市の水際の美しさは、今日富田浜しかございません。」と指摘しています。※ 注意いただきたいのは、この発言が昭和30年であったことです。
昭和30年霞ケ浦海水浴場
戦後、国のエネルギー政策を石炭から石油に転換するにあたって、旧海軍燃料廠施設を活用できる四日市を重化学工業の基地にする方針が決められた。四日市は、昭和37年に決定された全国総合開発計画の拠点開発方式といわれる地域開発のモデルとなる工業都市計画の調査研究対象になっていたのだ。この都市計画は、海岸線を重化学工業によって独占的に利用することを受け入れる役割を果たした。
昭和30年霞ケ浦海水浴場
石川教授のこの発言に対して市の「四日市総合都市計画の構想」では「四日市の工業発展は南部およびその後背地に計画して、四日市北部は工業化を極力避け、富田、富洲原海岸地帯はレクリエーション地区として保存すべき。」との方向性は示してありましたが、その後、反映した痕跡は見られませんでした。
戦後復興の勢いは、環境問題を無視して進められたのです。結果、四日市公害問題が発生しました。
昭和6年午起海水浴場