旧四日市港の南の昌栄新田もまた、古くから海水浴場として賑わっていたようだ。水谷宣夫様からお借りした“四日市志 名所案内付”明治40年5月発行(南町 伊藤善太郎氏著)
明治40年 昌栄新田の砂浜は埋立予定地である 掖済会前は砂地が広がっていたのがわかる 午起は加藤新田で海水浴場となる以前のようです
昌栄新田・・・もと、新田のありし所なれば、今は、遠浅の海辺なれども、なお、旧名を襲用して、昌栄新田とはいうなり。朝日の洲、遠く海中に突き出して一大湾をなし、内に、汽船、帆船の林立するあり。また遥かに真帆片帆の海上を往来するありて、その風光の美なる、到底筆舌に尽くしがたし。されば、潮干狩り、海水浴、観月等には最も格好の地にして、毎年期に至るごとに、関西鉄道は特に列車を発して、名古屋よりの来遊者を迎ふるなり。
十里の渡し(旧四日市港)付近(水谷百碩 画)
昌栄新田
因みに、垂坂山も掲載されている。
垂坂山の眺望・・・三重郡羽津村の西境にあり。停車場凡そ一里を距(へだ)つ。内海の光景一眸(いちぼう)の中に集まり、眺望甚だ佳なり。春秋二期には、此所に一日の清遊を試むもの多し。
追記:前回 椙山満氏の文に、四日市湊に蜃気楼が見得たという記事を紹介いたしましたが、三重県総合博物館のサイトにその記事がありました。