大正2年に午起を整備 椙山 満 「四日市市史研究 第4号」四日市市発行より
大正橋から川口まで500メートル程ある三滝川北岸堤防の途中からは、うっ蒼とした松原が翠の陰をおとし、川口で北へ曲がって海辺に沿って更に百メートルも続いていた。この辺りは波打ち際まで石積みになっていて、昭和10年頃から小学生の海浜学校が開設されていた。
大正11年
松並木が途切れるころ堤防がS字型にカーブするといよいよ午起海水浴場の松原が潮風に騒ぎ始める。堤防の石段下には、川原町を通ってきた市内バスの午起終点があり、近くを走る関西線には、昭和4年から夏季だけ午起駅が設けられていて「いそかぜ」「はまかぜ」の海水浴列車が名古屋・桑名方面からの海水浴客を運んできた。だが、殆どの市民や子供たちは、水泳着と手拭一本を持って炎天下を歩いたり自転車でやってきた。
「旧四日市を語る会」の大正時代初期のマップ
葭簀(よしず)張りの脱衣場で水着に着かえて、焼けるような砂を踏みながら水際に飛び込んでゆく。砂浜には浜昼顔や可愛いマメ科の植物が紅紫色の優しい小さな花を咲かせていたし、昭和10年代に入ると、ピーチパラソルや貸しボート、水上自転車、それに沖に浮かぶヨット赤や白い帆が、碧い夏空に沸き立つ入道雲にとりどりの色をそえて、少年時代の夏の忘れ得ぬ風物詩をかもしていた。
昭和6年の午起海岸 三滝川河口が望める
水上には飛び込み櫓(やぐら)、飛び込み回転櫓、救命浮き輪、救命板、救命竿などがあった。陸に上がると脱衣場入り口にあるシャワーの水を浴び、さっぱりした気持ちになって茄子や南瓜畑の砂地の道を通り、ポプラの木の揺れる大正橋を渡って町に帰ったものである。海蔵川口近くは南岸に天幕村が開設された時があったが、ここは泳ぎには適さず、三重橋の上から子供達が水浴びをしているのを見かけたことがある。
昭和53年のマップがベースになっております
昭和4年、海蔵川口の北の松原に霞ケ浦競馬場が開設され、四日市小唄にも“おもしろいぞえ霞ケ浦は、馬と白帆の駆けくらべ」とうたわれた。この辺りから北へ八幡(現 白須賀)までは、海中に竿を立てて海苔の養殖がおこなわれていた。