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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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日活と饅頭

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昭和22年、終戦の年より2年後、新田町に800人収容の「ラジオ劇場」ができた。当時は実演劇場だったが、昭和31年「四日市日活劇場」となり、日活映画専門の上映館として営業が続けられた。
     
呉服町から南への路地を入ると映画館があった。左に自転車置き場があり半分畳敷きになっていた。
私が幼少の頃、ここへお客さんに連れていかれてお饅頭をごちそうになった記憶がある。当時は人の出入りが絶えずあって、劇場経営の繁栄振りが思い起こされる。
     
やがて映画産業も下降線をたどり、日活は1971年(昭和46年)11月ロマンポルノ路線を打ち出す。
その第1作が「団地妻 昼下りの情事」(白川和子主演)と「色暦大奥秘話」(小川節子主演)だった。
その後、昭和56年11月、諏訪栄の大鯛ビル4Fに移転。昭和63年7月「ロッポニカ・四日市」に改称された。
当時、記念として女優の風祭ゆきが舞台挨拶に来ていたのを観に出かけた記憶がある。
繁華な場所にあるので入るのも恥ずかしい。緊張してエレベーターを待つ。4階入り口は狭く、切符を出そうとするとそこに友人のY君がいたので、ほっとした気持ち半分で驚いたことがある。館主とは知り合いで遊びに来ていたらしい。ワルイコト?は出来ない。
昭和30年代、「四日市日活劇場」の西側に松竹直営の「四日市松竹劇場」が建ち、呉服町そして日活・松竹と並んでこの界隈は賑わった。
昭和41年、三重劇場のスタッフによる経営に代わり洋画専門の「四日市宝塚劇場」に改名、「奇跡の人」(パティ・デューク)など名作が上映され洋画ファンに親しまれた。
やがて洋画ポルノの上映専門館となった。小生も好んで?通ったが、つらいポルノ映画の間に「スーパーマン」の予告編を観て、救われた気分になった覚えがある。鑑賞の結果は100%落胆だった。
昭和61年8月31日。往年の名画「ローマの休日」(オードリー・ヘプパーン)と「陽のあたる場所」(モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー)の上映で別れを告げた。

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