椙山満先生は、毎回“四日市市史研究”に、興味深い投稿をされていた。もし御存命であれば、いろいろお話をお聞きしたかった。さて、今回は「四日市みなとについて」であります。
寛文年間(1661~1673)の、四日市湊の地図である。鴨長明(1155~1216)の伊勢記にこうある。
浜村というところを過ぎ侍りけるに「このほど朝気(あさけ)の郡(こほり)といふ。浜の行く先に見ゆるは、日永と人のいふ所なり」といふを聞きて詠める。
行き侘(わ)びぬ いざ浜村に 立ち寄らむ 朝気過ぐるは日永なりけり
この浜村が、のちの浜田村になるところであり、海が近かったことを詠んでいる。
享保年間(1716ー36)の四日市町絵図(左位置の浜田村は描かれていない)
四日市の西方、常盤村あたりに源を発し、(現在四日市市立病院の建つ)芝田を流れ、やがて東海道は中浜田の東禅寺で北に折れ、江田町(えんだちょう)で久保田や堀木あたりから流れてきた支流と合流して東進、東海道の阿瀬知川橋の下をくぐり、浜田地内(現 三栄町や幸町)を海に向かって流れる阿瀬知川がまだ畔地川と呼ばれていた昔、1600年代には、神明南で(現在の朝日町南)川は大きく曲がって北に向かい、四ツ谷地内では伊勢電鉄の線路に沿って北上し、四ツ谷の善光寺(関西線四日市駅の北)から新丁通りに沿い、ここで幅の広い入り江を形作っていた。ここの海岸は不動松原と呼ばれ不動寺があって、境内には巨大な老松「燈篭松」がそびえていた。この不動松原の海岸こそ初代の四日市湊なのであった。
大正10年の不動寺 昔はこの松の下まで入江だった。龍の形をした松に灯明をつけて、燈台代わりにしたともいう(四日市の100年より)