椙山先生の叙情あふれる文章を御味わい下さい。
水谷百碩画“竜灯之松不動寺の晩鐘”竜頭の松は、不動寺境内にあった大きな松です。その高さから、湊に出入りする船の目印となり、いつしか竜灯の松と呼ばれるようになりました。枝の沢山の添え木が老木の風格を感じさせます。不動寺の晩鐘は、四日市の名所として近江八景にならったものです。
西方の夕空に一番星がまたたきはじめる頃は、不動松原にひときわそびえ立つ龍燈松の明かりを頼りに、潮の香を満載した漁船たちが次々と帰帆しては家路を急いだことであろう。この入江は、その先に早船町(後の新丁の北方)あたりで急に東へ曲がり、丸池で膨らむとまた北にまたがって川幅が狭くなり、築地の土橋をくぐりぬけてまた広くなり、やがて御滝川(三滝川)の川口と合流して海に注いでいた。その土橋は昔、四日市でも東海道が御滝川に架かる土橋(後の三滝橋)と並ぶ二大橋のひとつで、享保及び享和年代(1716~1802)に長さ14間、幅2間もある大きな橋で、のちに 勧進橋 更に 思案橋 と呼ばれるようになる。海から帰ってくる漁船は、川口近くの大きな中州に沿って南に舵をとり、築地の土橋をくぐり丸池新田で西へ折れてこの浜に着く。
出口對石画“不動寺の暮雪”不動寺には竜頭の松という名松がありました。樹齢300年を超えるこの松は、その昔、毎夜、竜が明かりを点したという伝説がありました。對石は枝一杯に積もった雪の景色として描き、その大きさ表しました。大正11年には国の天然記念物に指定されましたが、同15年に惜しくも枯れてしまいました。
不動松原にそびえる龍灯松と呼ばれる巨松には、龍神様が夜ごと燈篭に火をつけにこられ、漁船の安全を護ったと伝えられ、その松の根元には白蛇が住んでいた。この白蛇は日頃から三つの悩みを持っていたが、ある日龍神様のお導きで白龍大明神となることができ、龍灯松の精として松を護ったという。大正時代に入り龍灯松は高さ30メートル、根幹の周囲約10メートルの威容を誇り、大正11年天然記念物に指定されたが、大正14年の春から衰えはじめ、大正15年9月枯死して樹齢500年の長い“海の護り”の歴史を閉じた。
常磐や窪田から農業用水として流れ出た水は、町へ入ると汚水を集めて海へ流れ出ていきました。昔の地図の水の流れを色塗りしてみました。市街地に入るをほとんどが下水となっています。
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