決戦荒神山 最終章①
関西線加佐登駅を西へ十町余、高塚山手前を右に折れ三町、渓流を超えて坂を上ると荒神山観音寺がある。此処は幕府の天領と亀山藩と神戸(かんべ)藩の三分岐点で、官権の手入れがなかったため、4月7日の観音会式には筵張りの賭場が盛大に開かれ、お寺へのテラ銭は千両を下らなかった。この賭場は神戸(鈴鹿市神戸)の長吉(ながきち)の縄張りだった。それを狙った桑名の穴太徳(あのうとく)との縄張り争いが“血煙荒神山”で、廣澤寅蔵の浪曲で名が知られている。
さて、穴太徳は4月7・8日の御開帳に向け、甲州等八か国と伊勢一円に子分を走らせた。集まった博徒は430人といわれている。一方、長吉も南勢を巡歴したが、形勢不利とみて船で三州横須賀へ渡り、兄弟分の吉良の仁吉を訪ねた。義に厚い仁吉は自分の最愛の妻が穴太徳の妹だったので離縁し(映画では自害している)、清水一家と共に伊勢へ乗り込むこととなった。
4月3日、仁吉一行は勢州桑名に上陸、その夜は江戸町の角屋旅館に一泊して、翌4日穴太徳を訪れたが、すでに荒神山に出ていた。その足で神戸の長吉方に行き滞在することにした。翌5日、稲木の文蔵が南勢から、台屋の琴治が駆けつけて共に和解に努力したが穴太徳は拒絶した。
穴太徳に解散を説得する福田屋梅屋 戦の前には交渉があった。出来るだけ殺し合いは避けたかったのだろう。
明くる7日、仁吉一行は、荒神山へ向かう途中で出会った福田屋梅屋(40名を引率)から、穴太一家の解散を説得すると云われ、神戸で役人の監視下待つこととなった。翌8日、福田屋梅屋から解散命令に応ぜぬ連絡が入り、ならばと仁吉一行は、鎖かたびらに身を固め、筋金入りの後ろ鉢巻きに脚絆足袋に藁緒の草履という武装姿で荒神山へ向け出発した。
待ち受ける穴太一家(穴太徳と用心棒の角井門之助)
7日、穴太方は、福田屋梅屋の命令に応じなかったものの咎めるところがあり、その夜、荒神山を引き上げた。翌8日早朝、再び石薬師宿から上田鞠が野を経て、今の加佐登神社の西方に続く椎山に陣を張った。この椎山と荒神山との間の松林は、椎山が神戸領の高宮、荒神山が亀山藩の津賀、北方は天領となっており、先に述べた通り官権の手が行き届かない地域だった。(いよいよ荒神山決戦 最終章の最終章へ つづく!)