決戦荒神山 最終章②
加佐登神社西の椎山に立て籠る穴太徳(あのうとく)一味に対して、仁吉 長吉一行は即殺到せず、高塚山から右折、渓谷に沿って裏道に陣を張って様子を見た。
高塚はこの地図の左外になります。日本梱包運輸倉庫の上あたりか?
が、この時穴太徳ら十数名は、荒神山の釈迦堂前(今の奥の院)に移っていた。
釈迦堂(現 奥の院)
4月8日の正午近くに仁吉長吉は大政小政ら清水一家の者を引連れ釈迦堂へ乗り込み、穴太徳に談判したが(最後まで説得しようとしている。殺し合いを避けたいのか?仁吉側を正義としたいのか?)埒が明かないので、短気な小政が矢庭に穴太徳に迫り、刀を抜いて子分数名を切りつけた。これがきっかけとなり大乱闘の火ぶたが切って落とされた。
観音寺表門(左)の斜面。現在は溜め池となっている
穴太徳は椎山で指揮をとり、角井門之助ら浪人三人を含む総勢430人は、巡街道を一路西へ突進し、長吉方100人は仁吉を大将に、観音寺表門の斜面には御用聞きの福田屋勘之介・梅屋栄蔵の手の者150人が待機していたので、荒神山の裏手から巡礼街道殺到し、荒神山の境内裏手で両軍が衝突した。
角井門之助と仁吉
仁吉らは、敵の先頭と渡り合った。この時最も目覚ましく暴れまわったのが法印大五郎で、向こう鉢巻き素っ裸になって松の丸太を振り回し、片っ端からなぎ倒したと伝えられている。タジタジとなって退く穴太一家に、奥の院から100メートルほど東の山田井(灌漑用水が出ている処)に潜んでいた大政ら約10名が竹槍、鉄砲を持って喊声を上げて横から攻め込んだ(鉄砲は卑怯!といいたいが、仁吉側も鉄砲を持っていたようである)。
この時、退く敵を追う仁吉が、樹上に隠れていた敵の鉄砲に左大腿部への貫通銃創を受け、よろめいた処を居合わせた角井門之助に、後ろから頸部へ深く一刀を浴びせられた。
遠くで戦っていた大政が一目散に走り寄って門之助に槍を突いて仇を討った。穴太側の頭らも小政、法印大五郎、桶屋の鬼吉らに倒され(死者は意外に少ない。映画のようにはならない)、数十名の負傷者を出したので総崩れの気配となったが、長吉側も、大将の仁吉が倒れたので追撃をやめて境内に戻った。 (血煙荒神山は終息へ つづく ってなかなか終わりまへん!)