四日市湊物語⑱ 稲葉翁伝 其の二
この“血煙荒神山”にはプロローグがある(浪曲では題して“蛤屋の喧嘩”)。 “血煙荒神山”の吉良の仁吉(月形龍之介) 慶応2年2月20日夜。東富田の料亭三筋屋の看板娘お琴(現場は旧東海道 富田南町の料亭四日市屋から1軒北に排水溝がある。そこにお琴橋という小橋があったが、今<昭和31年現在>は無い)に穴太徳(あのうとく)の子分...
View Article四日市湊物語⑳ 稲葉翁伝 其の四
決戦荒神山 最終章② 加佐登神社西の椎山に立て籠る穴太徳(あのうとく)一味に対して、仁吉 長吉一行は即殺到せず、高塚山から右折、渓谷に沿って裏道に陣を張って様子を見た。 高塚はこの地図の左外になります。日本梱包運輸倉庫の上あたりか? が、この時穴太徳ら十数名は、荒神山の釈迦堂前(今の奥の院)に移っていた。 釈迦堂(現 奥の院)...
View Article四日市湊物語㉑ 稲葉翁伝 其の五
仁吉が切られたのを見た穴太側は、反撃に移ろうとしたが、予め待ち伏せていた福田屋と梅屋の手の者がこれを阻止、そして、穴太方に付こうと来ていた信州の時次郎が、穴太の不徳に驚いて、一旦戻っていた庄野宿から清水一家の応援に馳せ付けたので、穴太一味は、椎山(加佐登神社と観音寺の間に位置する)に引き上げてしまった。仁吉は頸部の出血がひどく、間もなく釈迦堂前で絶命した。 観音寺の一番奥(北)に建つ奥の院...
View Article四日市湊物語㉒ 稲葉翁伝 其の六
「おうそうだ、これ利助」三右衛門は、膝を叩いて云った。 「お前に頼んでおいた大野行の荷物はもう船へ積み込んだろうな、お前の船は確か茂左河岸(思案橋外)に繋いである筈やな、急ぎの荷物やから今夜にも船を出してくれ 船会所へは私から届けておくから、私はこれからお役所へ行ってくる、お前の方もはよう帰って支度をしてくれ。」...
View Article四日市湊物語㉓ 稲葉翁伝 其の七
四日市の湊へ 稲葉三右衛門は、幼名を九十郎と云い、美濃高須の旧家 吉田詠甫の六男として天保8年9月21日産声を上げた。詠甫は、商才に優れていたので、常に揖斐川を川舩で上下して桑名・四日市と往来して取引をしていた。 十里の渡し...
View Article稲葉翁伝⑧ 四日市湊へ 其の二
「これは これは吉田さん、お早いお着きでしたなぁ」中納屋の稲葉の店頭に現れた詠甫を出迎えたのは三右衛門(先代)だった。「おや 坊ちゃんですか、どうぞ どうぞ」と奥の八畳へ案内した。 「良いお日和ですなぁ 船ですか 陸でしたか?」 「ハイ 舟で参りました それも川舩で」 「へえ あの川舩で桑名から」 「この子に教えられましてなぁ...
View Article稲葉翁伝⑨安政の大地震
九十郎はその後、美濃高須へ帰ることもなく、稲葉家で仕事を手伝うようになった。数年の歳月が立ち、安政元年、九十郎は15才、おたかは8才を迎えていた。養母のおたいが亡くなったこの年から3年は、九十郎にとって終生忘れ得ぬ苦難の連続となる。 Web: ニュースという物語 江戸大地震の図より...
View Article稲葉翁伝⑩ 横浜視察
稲葉翁は、明治3年10月20日、廻潤丸の客となって、横浜見物の途につきました。船中では嘉納船長に、長谷川庄兵衛と共に描いた港の図面を見てもらっています。...
View Article稲葉翁伝⑫ 田中武右衛門
「ねえ、徳田屋さん、あんたとは文久3年以来の長いお付き合いですが、三右衛門一世一代のお願いを聞いて下さらんか・・・」 此処は浜町、徳田屋こと田中武右衛門の奥座敷。時は明治4年正月、まだ松の内の七日。次第に更け行く夜の寒さに、主客二人が火鉢を囲んでの対談。三右衛門の言葉は次第に熱を帯びて真剣そのものだった。 Web日本財団図書館資料より 咸臨丸模型...
View Article稲葉翁伝⑬ 日野 百日算
「この度、田中武右衛門さんとも相談しまして、いよいよ工事を始めたいと思いますんで、ご挨拶かたがた御指図を賜りたいとお伺いした次第です。」 処は、度会郡四日市支庁(中部西小学校の陣屋跡)の応接間。庭に大きな椋の木がある。武右衛門と三右衛門は、支庁長の浦田長民に前へ見取り図を広げた。 「これはこれは、なかなか立派なもんじゃなぁ。しかし難工事となろう・・・」...
View Article稲葉翁伝⑭ 県参事 岩村定高
稲葉三右衛門は、何人とも手をつけることのなかった難工事を、個人で設計から見積り、湊を生業としている人々への説得等を行い、明治4年1月13日、田中武右衛門と共に県庁を訪れた。 博物館明治村 三重県庁舎 : レトロな建物を訪ねて (exblog.jp) 実は、明治4年の廃藩置県施行後は官庁の移動が多く、頼りの浦田長民はもう四日市にはいなかった。四日市は、明治2年8月...
View Article稲葉翁伝⑮ 山中家での話合
県庁での返事は、波止場修復には戸長の承認がいるという事だった。明治5年の管制の改革で従来の庄屋、名主を廃し、各地域に戸長、副戸長が置かれた。この年の4月、戸長はじめ副戸長が山中邸に集まった。当主 山中伝四郎は三右衛門の実兄にあたり、先代 三右衛門の世話で、川原町の山中家に養子として来ていた。山中家は、尼子十勇士の筆頭、山中鹿之助の血を受けた名門である。...
View Article稲葉翁伝⑯ 岩崎彌太郎に会う
明治6年正月、三右衛門は実兄である川原町の山中伝四郎宅へ、年頭の挨拶に出かけた。 「おお、九十郎か、丁度良い処だった。今お前の宅へ使いをやろうと思っていたところだ」 「何か、急用でもできましたか。」 「急用も急用、大至急の用事が出来た。マアこの手紙を読んでくれ。」 伝四郎から、三菱汽船会社 横浜支店の後藤伊兵衛宛に、港改築の件で連絡してあった、その返事が来たのだ。社長...
View Article稲葉翁伝⑱ 友の離脱!
工事に取り掛かるや、準備万端で始まった長谷川正兵衛の仕事は早かった。数人の人夫を乗せた数艘の浚渫船で底の土砂を搔きあげては積み上げていく。そこでは根固めの杭打ち作業が行われている。三本の丸太で組まれた櫓(やぐら)に綱を通し、三カ所から引っ張ってはドスンとおとす。“ヨイトヨヤマカ、ヨイトマカセ”と、のどかな杭打ち唄があちこちから聞こえていた。 写真集四日市の100年より(明治7年頃)...
View Article閑話休題 荒神山 代理戦争その1
穴太徳(あのうとく)が、加勢を頼んだ者の中に“武井のドモ安、玉手箱の長次等 黒駒勝蔵の身内で、総勢430人と云われたが・・・”とあった。穴太側に黒駒党が付くという。黒駒党ってどういう集団か?ムム・・・荒神山の決戦には背景があるのでは?と、読んだ本がこれであります。(名前の羅列でムツカシイ!)...
View Article閑話休題 荒神山 黒駒勝蔵
安政3年(1856)、黒駒勝蔵は、甲州は竹井村の中村家(兄 甚兵衛・弟 安五郎)の子分となっている。この時すでに、安五郎は島抜けしていた。島抜けは捕えられ獄門である、幕府は絶対に見逃すわけにはいかなかった。 文久元年(1861)、関東取締出役 道案内...
View Article閑話休題 荒神山 形原斧八
天龍川から西へ、数百名の博徒が東海道を走った。その翌年の元治元年、黒駒勝蔵は、次郎長が待ち構えていそうな駿河、遠江は避けて、金城湯池三河に一時の隠家を求めた。三河は、寺津の間之介、吉良の仁吉、形原の斧八の次郎長勢で固められていたが、平井の雲風亀吉(元力士)が勝蔵の兄弟分だったので、ここを拠り所としたのだった。 前芝の燈明台(復元) その年の6月5日...
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