「おうそうだ、これ利助」三右衛門は、膝を叩いて云った。
「お前に頼んでおいた大野行の荷物はもう船へ積み込んだろうな、お前の船は確か茂左河岸(思案橋外)に繋いである筈やな、急ぎの荷物やから今夜にも船を出してくれ 船会所へは私から届けておくから、私はこれからお役所へ行ってくる、お前の方もはよう帰って支度をしてくれ。」
立ち上がる三右衛門の後ろ姿に利助と庄太夫は手を合わせた。これが奇縁となって明治9年の伊勢暴動の際、この庄太夫のために三右衛門が難を逃れた話しは後日に譲ろう。
2021年6月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
仁吉一行は、磯津から漁船に乗ったという説と、大井の川の瓦屋 森与左衛門の持ち船に乗ったという説があるが、船会社の手形を持つ与左衛門説を肯定させていただいた。(なんや??利助の船と違うんかいな?)次回へ・・・
数日前、荒神山観音寺へ出かけた。門前の札に・・・
当寺は 寛治元年(1087年)4月 堀河天皇の時代に建てられたもので 真言宗御室派(おむろは)仁和寺(にんなじ)に属し 十一面観世音菩薩をお祭りしてあります
往古は神事山と伝い 後ち高野山の一寺の名をとって荒神山と改めました 出羽の国湯殿山の行者 順海上人の異母姉に当たる三代将軍徳川家光の乳母春日局(かすがのつぼね)は 当寺に信仰厚く 正保四年(1647年)銘入りの釣り鐘と共に 五体の仏像を寄進されました
また 奥の院の三宝荒神は 春日局と順海上人が礼参りしたもので 暴悪治罰の神徳があらたかなため 勝運を祈願される方が多くみられます 慶応三年(1866年)4月8日 ばく徒の神戸の長吉と桑名の穴太徳が 縄張り位争いから 当寺裏山で死闘を尽くしたのが 後の世に「荒神山の血煙」と題した浪曲となって 当寺の名をいっそう広めることになりました 鈴鹿市観光協会
とある。階段を上がると、森閑とした境内の右側に梵鐘があり正面に本堂が建つ。
左へ逸れて奥へ進むと、本堂後ろに観音堂があり、
一番奥に“奥の院”が見えた。其処に陣取る穴太一家の姿が浮かんできそうだ。
此処の裏山で決戦が展開されたというが、裏は畑に、西は住宅地で開けている。
ふと見ると、奥の院の右、林の中に“仁吉の碑”が立っていた。ここの雰囲気は刀を持って走り回っていた仁吉の姿を彷彿とさせる。
仁吉の碑を後ろの林から撮る。右に奥の院
今も仁吉の碑は、奥の院の横で、静かに境内を眺めている。
荒神山観音寺前(南側)は貯水池になっているが、嘗てこの底にあった渓谷伝いに、行き来する穴太一家や取っ手の福田屋、梅屋の行列が浮かんでは消えた。