明治6年正月、三右衛門は実兄である川原町の山中伝四郎宅へ、年頭の挨拶に出かけた。
「おお、九十郎か、丁度良い処だった。今お前の宅へ使いをやろうと思っていたところだ」
「何か、急用でもできましたか。」
「急用も急用、大至急の用事が出来た。マアこの手紙を読んでくれ。」
伝四郎から、三菱汽船会社 横浜支店の後藤伊兵衛宛に、港改築の件で連絡してあった、その返事が来たのだ。社長 岩崎彌太郎は、年が明ければお話を聞きたいとのことだった。1月5日の夕刻、四日市港を去る貫効丸の甲板上に立つ両人の顔には、鈴鹿連峰に燃ゆる真っ赤な希望の光が写っていた。
岩崎彌太郎
安芸市 : 三菱創業者『岩崎彌太郎』 (city.aki.kochi.jp)
二人が岩崎邸を訪問したのは8日の朝だった。三右衛門は図面を広げ、この3年間の経過を手短に説明した。
「会社(三菱汽船)の代理店主なら身内も同様じゃ。私も四日市には早うから目を付けておるんじゃ。万事はこの岩崎が飲み込みました。井上と大隈に会って談判しましょう。三菱では、すでに四日市に支店を置いて、東京名古屋大阪間の中継港にする計画をしておりますのじゃ。シッカリやって下さい。」
大蔵省
2:官庁街となった大手町 ~ 丸の内・大手町 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産 (smtrc.jp)
井上は時の大蔵大輔 井上 馨、大隈は云うまでもなく後の大蔵卿、当時大蔵省事務総裁を勤めていた参議 大隈重信、長州の井上と佐賀の大隈、土佐の岩崎はかつて同志の仲、その交情は今も昔も変わりはない。
長州ファイブの井上馨と・・・
歴代総理の胆力「大隈重信」(4)無類の恐妻家で外に女なし | アサ芸プラス (asagei.com)
彌太郎は翌9日、馬車で大蔵省に出かけている。
「港は国の宝じゃ、その港湾を個人が自費でやろうというのに、地方の小役人が私情に走って、妨害するとはけしからん。」と怒鳴り込んだ。
驚いたのは井上大隈の二人、さっそく係官を四日市に出張させることとなった。
時の人(明治2年)▷伊藤博文・大隈重信・井上馨 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives (jaa2100.org)
こうして、稲葉三右衛門と田中武右衛門の“四日市波止場建築事業”はようやく着工となった。
<カオさんへ> 昭和43年の頃の新味覚周辺図を掲載します のれん街の中にありました
この後、左上のフタバリハツさんのあたりにも店舗が出来たと記憶しています。