旧暦の明治6年3月12日、麗かに晴れ渡った彌生日和であった。朝10時から、今の、相生橋東詰めの浜洲で、質素ながらも厳粛な地鎮祭が執行された。祭主は、稲葉三右衛門と田中武右衛門、式は諏訪神社の宮司が行った。来賓には大井水哉、山中香斉、村田政延、田中武右兵衛、森寺源助ら稲葉田中両家に出入りするもので、工事は請負師の長谷川庄兵衛であった。県庁から岩村参事と鳥山権参事の出席がなかったのは正式許可が出ていなかったからと思われるが、港を生命とする回漕汽船側からは、黒川氏をはじめ誰一人の参加もなかった。
工事現場に建つ三右衛門と思われる
これは、三菱汽船と回漕汽船との間の意見の隔たりが原因であった。三菱汽船は、新しい港を、当時の開栄橋から東の新開地に港を造り、北(稲場町)を海運業者の根拠地とし、南(高砂町)に繁華街を持ってきたいと思っていたが、回漕汽船側は、現状維持のまま、蔵町筋から納屋河岸一帯を海運業者の本拠地にという意見だった。まさに革新と保守、積極と消極、進取と堅実との対立だった。
顔の様子が今一つはっきりしないが、この頃はひげがない
そして、両派対立の構図は、ますます混迷を深めていった。明治8年 三菱汽船は四日市代理店を支店に昇格、北納屋から新開地の稲場町へ移した。そして、回漕汽船と激烈な競争を演じた挙句、回漕汽船を解散へと追い込んでいる。この対立が露骨化して行くにつれ、三右衛門の事業進行に大きな障害となり、必要以上に三右衛門を苦しめたのだった。ー郷土秘話 港の出来るまで よりー
<追記> 三重県のWebページを見ると、三右衛門翁の事業は、途中で頓挫していてその後、県が事業を引き継いで完成したと出ていた。あまり良く書かれていない印象である。岩村参事の亡霊か?真実は如何に!