三右衛門は、明治6年9月20日付で、三重県庁宛“旧桑名城跡廃石払下願”を出している。材木の調達に桑名へ出かけた折、桑名城の荒れ地に残る石垣を見て堤防に利用できればと考えたからであった。
仲間の田中武右衛門が離脱したため、資金の調達は三右衛門一人の肩に重くのしかかっていた。既にこの頃、日当で払う人夫賃は、人足請負の長谷川庄兵衛が店からいくらかもらってきては支払うという状況だった。金融機関のない当時としては、1日も早く埋立地造り、それを利用して資金を作らなければならなかった。三菱汽船に掛け合っても、港が出来たら支店を出して本腰を入れるから待って欲しいとの事だった。三右衛門が金策に焦れば焦るほどデマが乱れ飛んでいった。
左“蓬莱橋”
明けて明治7年元旦、午後になって稲葉家では、県の鳥山権参事ら要人と長谷川庄兵衛ら平素懇意な知人を招待して年酒を出した。献立は、田作り、数の子、牛蒡 蓮根 煮豆、蒲鉾 いり卵、鮒の荒目巻、蛤のお平に酢の物、吸い物に漬物という質素なものだった。
“開栄橋”
夜は、手代や身内に出入りの者加えた二十余人で席を設けている。献立は、田作り数の子などの正月料理の外に、鮒の荒芽巻、鯨肉に蒟蒻、蒸し蛤にボラ、奈良漬という膳であった。席の準備が出来たところで三右衛門は挨拶した。
“開栄橋”を渡ると“稲葉町”。南へ“蓬莱橋”を渡ると“高砂町”
「新年おめでとう。去年はいろいろ骨折りをかけて済まなんだ。今年は波止場工事にかかる。一層苦労を掛けるが四日市の為と思うて頑張ってほしい。そこで、新年の席に町の名前を付けたいと思う。北側の寅高入新田は、ご先祖様のおかげやから“稲葉町”、南側の己高入新田は、横浜の歓楽街高島町と家内の“おたか”の名を記念して“高砂町”、橋の名前に、新浜橋は 橋が港を繁盛させるよう“開栄橋”、掘割に新しく架けた新大橋は繁華街へ行く目出度い橋やから、高砂町の名にふさわしく“蓬莱橋”と付けたい。」
おたかの眼には光るものがあった。この後、南方面に造られた地名に、“尾上町”“末広町”“千歳町”と、高砂町に因んだ名が付けられたことは、先人 三右衛門の遺徳を偲ぶ市民の思いからだったろう。
郷土秘史 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史より