第三ラウンドは、荒神山観音寺の争いである。“稲葉三右衛門 築港史 港の出来るまで”に書かれている内容と、高橋 敏著の『清水次郎長』とは微妙に異なる。
桑名の博徒 黒田屋伝蔵の跡を継いだ穴太徳が、神戸の長吉の縄張りであった荒神山観音寺を奪おうとしたと“築港史”にあった。ところが・・・
『清水次郎長』によると、伊勢日永追分の黒田屋勇蔵に絡む騒動でもあり、跡目争いに勝って縄張りを手に入れた子分の穴太(あのう)に対して、三河に追われた神戸長吉が、吉良仁吉、寺津間之介、そして清水次郎長の力を借りて奪い返そうとしたとなっている。一方、穴太徳が平井亀吉、黒駒勝蔵に助力を求めるのは成り行きだった。つまり、清水次郎長と黒駒勝蔵の代理戦争の様相になっていく。
広重東海道五十三次より石薬師 石薬師寺が望める
現在の石薬師寺
三河は寺津の間之介の処に集まった吉良仁吉、大政ら22人は神戸の長吉の助っ人に海路で四日市に着き、石薬師宿に陣取った。
荒神山観音寺
方や勝蔵と亀吉の一党四十人余は庄野宿の穴太徳の陣に駆け付けた。地廻りの役人が調停に乗り出す(福田屋勘之介と梅屋栄蔵は、定五郎橋下で仲裁に入り、荒神山山門下で待機している)が無視、慶応2年(1866)4月6日、参拝客で賑わう荒神山観音寺で壮絶な戦闘となった。荒神山では、次郎長と亀吉、勝蔵は不在で子分同士の斬り合いとなっている。大政が用心棒 角井門之助を倒すが、仁吉は銃弾に倒れ重傷を負う。
大政(左)と銃弾を受けた仁吉
次郎長方、斬死2名、重傷4名、軽傷9人を出して総勢22人中15人が戦闘不能となり、あとは退却しかない。一旦、石薬師の山中に隠れ、夜になって日永追分の善吉の手引きで船を調達、嫌がる船頭をなだめすかして、仁吉の遺体と共に三河の寺津へ戻ることが出来た。次郎長への事の報告は同行した講釈師 清龍と云う男が熱弁を振るって伝えた。
観音寺奥に建つ 仁吉の碑
次郎長は、今回の出入りで伊勢に強固なネットワークがあることを知り、その張本人は、伊勢古市の丹波屋伝兵衛であることを突き止めた。鳥銃40丁、長槍147、糧米90苞を積み四百八十余人を乗せた大軍団は、三河 寺津の湊から伊勢湾を横断して5月21日、宮川を上った上社湾(かみやしろわん)に着岸した。
今に残る 古市の旅館“麻吉”
次郎長は、大政らを派遣して荒神山の一件を糺そうとしたが、伝兵衛はすでに逃亡していた。博徒の出入りというものは、世間体を気にした意地の張り合いであり、斬り合いになると、傷の手当や葬儀代と費用がかさむので、仲裁を入れて手打ちをすることで納める事が最善策であった。
荒神山が関連する一件を、次郎長対勝蔵というミクロの眼で追ってきたが、日本の歴史というマクロな目で見ると幕末維新の激動は、博徒を巻き込んで同時進行で起こっていたのでございます。 <閑話休題>はいったん終了です