閑話休題 荒神山 吉良仁吉
第三ラウンドは、荒神山観音寺の争いである。“稲葉三右衛門 築港史 港の出来るまで”に書かれている内容と、高橋 敏著の『清水次郎長』とは微妙に異なる。 桑名の博徒 黒田屋伝蔵の跡を継いだ穴太徳が、神戸の長吉の縄張りであった荒神山観音寺を奪おうとしたと“築港史”にあった。ところが・・・...
View Article稲葉翁伝 ⑲ 高砂町
三右衛門は、明治6年9月20日付で、三重県庁宛“旧桑名城跡廃石払下願”を出している。材木の調達に桑名へ出かけた折、桑名城の荒れ地に残る石垣を見て堤防に利用できればと考えたからであった。...
View Article稲葉翁伝⑳ 子安観音
明治7年5月27日夜半過ぎに、頼りにしていた実兄 川原町の山中伝四郎(香斎)は静かに息を引き取った。後日(明治21年)三右衛門が藍綬褒章を賜った際、息子 甲太郎に語っている。「私が今日の栄誉は、兄のお陰じゃ。私が波止場で苦しんでいる最中 権五郎さんに死なれた時は、私の一生を通じて一番悲しいことじゃった。」しみじみ述懐したという。 現 稲葉邸より東 開栄橋を望む...
View Article稲葉翁伝⑳ 苦闘の6年間
明治7年9月、四面楚歌の中 県の鳥山権参事から呼び出しがかかった。鳥山は岩村参事とは異なり、三右衛門の事業に理解があった。 「稲葉さん、云い難い話だが、港が現状のままでは困る、相当の献金をしても良いから港の改修を急いで欲しいと廻漕汽船会社から話が来ている。個人の力では無理な工事、官の手で進めてはどうかと。」...
View Article稲葉翁伝㉒ 伊勢暴動
三右衛門のところに、明治8年1月より官営(県営)で港工事に着手すると通達が届く。話は前後するが、県庁は明治7年1月、四日市から津へ移庁され、岩村定高参事は権令に、鳥山重信権参事は参事に昇進し、四日市には支庁が置かれている。県が官営にする理由は、 汽船の出入り逐次頻繁となるにつれ、現在の四日市港は至急改修の余地があること。...
View Article稲葉翁伝㉓ 判決
明治9年の伊勢暴動を機に、岩村参事は“民意の赴くところを察し、庶心改革に志し、築港工事をも中止してしまった”と、『郷土秘史 港の出来るまで』にあった。少しビビったのだろう。 雪の開栄橋(明治30年頃)四日市の100年より さて、大阪高等裁判所に提訴した原告 稲葉三右衛門、被告...
View Article稲葉翁伝㉔ 暗殺
明治11年、稲葉三右衛門は三菱汽船の支店長 大井水哉と共に上京、岩崎彌太郎邸を訪れた。 岩崎彌太郎 「そうか、そりゃ無茶だ。待てよ、この5月に大久保がやられてから(暗殺)後は大隈(重信)が内務卿兼ねておる筈じゃから会って話をするといい。」ということで、岩崎は大隈重信を紹介した。(この頃 大隈は立憲君主制を議会に諮る件で伊藤博文と対立 イソガシイ) 大久保利通暗殺 漫画版日本の歴史12 監修...
View Article稲葉翁伝㉕ 再開
明治11年6月 大阪高等裁判所で三右衛門は敗訴に終わったが、その後、県による工事の進捗はなかった。理由は、財政上施行困難という事だった。三右衛門は、内務省に訴え出る。こうして内務省による実地検分が行われ調整案が出された。 明治21年竣工の開栄橋...
View Article稲葉翁伝 最終回 竣工
明治13年3月15日、澄み渡った青空の元 起工式が行われ、工事は再開された。かねて申し入れていた桑名城跡の石材が運ばれ、美濃や赤坂から雇い入れたい石工が、手際よく石垣を組んでいく。伊勢暴動以来、南町や北町に引き上げた妓楼も、再び高砂町で普請を始める。県から地券も少しずつ公布され、貸地料も返してくれるようになった。 伊勢暴動(明治9年)で焼失する前の高砂町の賑わい 水谷百石画“明治初年高砂町遊郭”...
View Article稲葉翁伝 エピローグ 検証
ここまでの築港の歴史をたどってみる 昭和3年 昌栄橋北詰めに完成した三右衛門像 明治6年 9月 三右衛門の手で起工 明治7年 9月 県による継続の説得ありこの時 埋立九分完成 明治7年10月30日 内務省より土木賦課金 築港税の請求 一時中断 明治8年 1月 県による工事着手の通達 明治9年 3月 三右衛門 大坂高等裁判所へ上訴 明治9年12月 伊勢暴動 明治11年6月 4日 三右衛門敗訴...
View Article四日市漫歩マップ①掖済会
明治28年の鳥観図 港に燈台が立つ 掖済会という不思議な名前の建物が、旧港の北側にあった。そう思ったのは1年ほど前のことである。 明治40年発行の“四日市史” イカリのマークになっている 腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。 明治44年の地図には“掖済会”の文字が確認できる 掖済会(四日市海員寄宿舎とある)...
View Article四日市漫歩マップ②図書館
明治44年の地図であります。“保光苑”とあるのは現在の諏訪公園。明治44年日露戦争戦勝記念として、諏訪神社裏の公園を“保光苑”として市民に開放されました。 旧図書館は、大正天皇御大典記念として大正5年6月に竣工しています。この時、“保光苑”は“諏訪公園”と改称されました。神社本殿裏の池の向こうに少し覗いている建物が旧図書館です。 木造2階建てのしゃれた建物でした。...
View Article四日市漫歩マップ③商工会議所
明治44年 明治44年の地図を見ると、浜往還通り、中町に“商工會議所”の文字が見える。当時としては1等地である。 通り沿いにそびえているのが、明治38年できた“四日市商工会議所”。 昭和15年 昭和5年、四日市港第2修築工事が完成したのに合わせて、新しく出来た埋立地へ移転する。昭和11年3月 この千歳町で“国産振興四日市大博覧会”が開催される。(三角の処が博覧会会場跡地)...
View Article四日市漫歩マップ④ 幻の合同駅
椙山 満先生の“北勢軽便王国物語”をWebで見つけた時は驚いた。 大正5年11月の撮影で、左に四日市鉄道、右が三重軌道の合同駅になっている。この駅舎は大正5年3月に出来て、昭和3年に伊勢電鉄の路線になるまでの約12年間存在していた。その後、両線は東海道沿いの諏訪駅が始発駅となっている。...
View Article四日市漫歩マップ⑤国際振興大博覧会
昭和13年 会場跡地 昭和11年3月25日から5月13日まで 四日市港の第2期修築工事完成記念として、第2号地(千歳町)を会場に“国際振興四日市大博覧会”が開催され、来場者は120万人を超えて大成功でした。 千歳橋を渡ると正門のモニュメントがそびえ立ちます。仏教館の巨大な仏像が望みながら橋を渡る来場者には、気持ちの高まりが押さえきれなかったと想像されます。...
View Article四日市漫歩マップ⑥補足
四日市商業会議所は、明治26年5月に設立され、明治38年8月に浜町に事務所を新築した。 写真には“四日市実業会館”とある。その建物の写真。 追記:商工会議所の水谷さんのお話によると、商工会議所は昭和21年再開されて、従来のまま千歳町で運営されていました。ただ空襲による被害が大きく、修理の必要と地理的に不便だったため、昭和25年に現在の場所に新築されたという事でした。戦争の被害に遭っていたようです。...
View Article四日市漫歩マップ⑦四日市市役所
明治21年に四日市25か町 戸長役場を上神町に新築(後の四日市町役場)している。市政施行の準備に入った。 明治44年のマップを見ると、高等女学校と第五小学校(現在の中部東小学校後 中央小学校)に西側に建てられている。 明治30年8月1日 全国で45番目に四日市市政施行 大正11年の地図。市役所の位置は変わらない。 昭和13年のマップからは、市役所が現在の位置に移転新築されているのが分かる。...
View Article四日市漫歩マップ⑧三和商店街
昭和30年代 三和商店街は戦後 本町の一角に出来た。国鉄四日市駅のすぐ北側にあった。(四日市の今昔 樹林舎刊) 三和商店街と描かれた下には元気屋、右隣りには丸武家具店が入っている。看板の奥にアーケード付きの商店街が並び、居酒屋やバーが建ち並んで賑わっていたが、やがて繁華街の中心は近鉄四日市駅周辺へと移っていった。 10年ほど前の三和商店街 建て直しの課題が出ていた 昭和43年の地図...
View Article四日市漫歩マップ⑨札ノ辻
東海道45番目の宿場町“四日市”。四日市は市場町として栄えてきたが、良港にも恵まれていた。東海道と港を結ぶ浜往還が出来て、四日市宿は“札ノ辻”である十字路を中心として栄えてきたのだ。 明治44年の地図。赤い部分が辻になる。右側の小学校の建つ部分が陣屋跡。江戸の頃は、旅籠、馬立て場、脇本陣、料理屋と賑やかだったと想像される。...
View Article四日市漫歩マップ⑩諏訪神社 其の1
諏訪神社と諏訪公園は、オラが幼少時の遊び場であった。幼稚園が公園内にあったことも大きな要因である。帰宅すると神社へ走る。必ず友達がいた。おっちゃくい松永兄弟は、神社拝殿の屋根へ登った。ついでに正ちゃんのシャツの中に幼虫を放り込んだ。お腹に入った幼虫は白い汁を出して潰れた。...
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