三右衛門のところに、明治8年1月より官営(県営)で港工事に着手すると通達が届く。話は前後するが、県庁は明治7年1月、四日市から津へ移庁され、岩村定高参事は権令に、鳥山重信権参事は参事に昇進し、四日市には支庁が置かれている。県が官営にする理由は、
汽船の出入り逐次頻繁となるにつれ、現在の四日市港は至急改修の余地があること。 港湾の如き重要な公益事業は私人の手に委ねて、入港船舶に屯税を徴収せしむる如き手段をとらず、官庁の手で経営して、これを公開するのが正当であること。 稲葉三右衛門は資力乏しく、これに任せておいては、何時出来るが、到底 成工の見込みが立たない事であった。開栄橋と蓬莱橋を架設まできたが、官営地の払い下げが出来ないため資金繰りに窮している。ここまでしたのに県は事業を横取りしようとしていると見た稲葉三右衛門は、大阪地裁に訴え出る決断をした。
明治9年12月、地租改正を不満とする農民一揆が勃発、四日市を襲った。
2021年6月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
一隊は竹槍棍棒を手に松明を振りかざし叫ぶ、
「戸を開けろ、酒を出せ、飯をよこせ、みんな表へ出ろ、火をつけ焼き払うぞ」
中納屋の郵便局、三重県庁支庁、裁判所、監獄署と次々燃え上がった。南町の黒川運送店(黒川彦右衛門)では、店の帳簿や荷物が路上に積まれ火を放たれた。その中の一隊は、高砂町の全町65戸を灰燼とし、蓬莱橋を渡って出来たばかりの三菱汽船支店に火を放ち“金持ちの家を焼き払えっ”と開栄橋へ殺到した。その時、橋詰に仁王立ちの素っ裸の姿があった。男は大刀を振りかざし暴徒二、三人に傷を負わせ、三右衛門に「旦那、良かった、もう大丈夫や」と暴徒を追い払って云った。彼は、嘗て荒神山出入りの際、吉良の仁吉の一行に船を出してくれた庄太夫だった。暴徒によって灰燼と化した町を眺めて呆然と立ち尽くす三右衛門。しかし、伊勢暴動は、彼にとってある意味、天祐であり神助であった。 “四日市秘史 港の出来るまで”より
<追記> 昨日、神社の幟立ての合間に、前田氏がお寄り頂き、下記のブログは私がつくりましたと話していかれた。予測は当たっておりました。