明治11年、稲葉三右衛門は三菱汽船の支店長 大井水哉と共に上京、岩崎彌太郎邸を訪れた。
岩崎彌太郎
「そうか、そりゃ無茶だ。待てよ、この5月に大久保がやられてから(暗殺)後は大隈(重信)が内務卿兼ねておる筈じゃから会って話をするといい。」ということで、岩崎は大隈重信を紹介した。(この頃 大隈は立憲君主制を議会に諮る件で伊藤博文と対立 イソガシイ)
大久保利通暗殺 漫画版日本の歴史12 監修 山本博文 より
「うむ、そうか、いろいろ苦労なさるそうじゃのう。大隈からの連絡じゃと云って、事の詳細を土木局長へ伝えてくれ。俺は三重県には縁がある。桑名の諸戸清六には世話になったよ。」と、気さくな一面を見せた。時の土木局長は、土佐出身の山浦順三という、評判のやり手で快活な男だった。
「県令も裁判で勝った後だから鼻息も荒ろうし、本省へ呼ぶよりもこちらから現場へ出向いた方がよさそうだ。」こうして、大井と三右衛門は滞在約1か月の後、来四を土産に四日市へ帰った。
敗訴以来、世間の目には厳しいものがあったが、少しずつ同情する噂も出始めた。
「ほんにお気の毒や、あんなに一生懸命になって御座るのに、お上の仕打ちはひどすぎる、何とかならんもんやろかなあ。」一方、回漕会社も解散してしまい、三菱汽船となり、稲葉家の店も、日増しに忙しさを増していた。
明治11年9月20日、四日市港調査のために山浦土木局長、技師1名、属官1名が三菱汽船の千年丸で上陸した。その日、一行は思案橋の吉高屋旅館に投宿している。
<閑話休題>
稲葉三右衛門の「夢」未完?-直後に県が築港事業構想 (mie.lg.jp)
県のホームページに、築港事業の最後の仕上げをしたのは県であることが記されています。現在紹介の記事は明治11年。事業の中断で議会にて問題になったのは明治17年、タイムリミットは6年間。事の成り行きをこの本はどう書いているのか? さて、いかなる展開を見せるのでせうか? 乞うご期待! 四日市秘史 港の出来るまでより