明治13年3月15日、澄み渡った青空の元 起工式が行われ、工事は再開された。かねて申し入れていた桑名城跡の石材が運ばれ、美濃や赤坂から雇い入れたい石工が、手際よく石垣を組んでいく。伊勢暴動以来、南町や北町に引き上げた妓楼も、再び高砂町で普請を始める。県から地券も少しずつ公布され、貸地料も返してくれるようになった。
伊勢暴動(明治9年)で焼失する前の高砂町の賑わい 水谷百石画“明治初年高砂町遊郭”
明治17年5月5日、高砂町荷上場前の広場で落成式が挙行され、当時の四日市の知名人を含む数百名が集まった。明治3年10月悲願を起こしてより、17年5月までの15年間、しかもその間、真に工事に没頭できたのは5年余に過ぎなかった。総工費20万円、昭和30年当時のお金に換算しても5億3千500万円が投入されたのである。帰宅後、家族関係者を前に、三右衛門はしみじみと語った、
「みなさん有難う、本当に有難う。今日の事あるはみんな皆さんのお陰や、私のようなものをよう助けて下された。三右衛門からお礼を申します。明日は、得願時(稲葉家の菩提寺)と法泉寺(川原町 山中伝四郎の墓)へお参りして、先代様と兄さんに報告をしたうえ、その足で高須(三右衛門の実家)へまいります。これで私も日本晴れの気持ちや。何もないが、心ばかりのお祝いをやりましょう。」
その後も、三右衛門は補足工事や、債務工事に1年余没頭している。一切の残務を済ませ、三右衛門の手に残ったのは、中納屋の家と屋敷だけで、稲場町、高砂町両町の土地も蔵町の倉庫も人手に渡っていた。明治21年、稲葉三右衛門は藍綬褒章を受ける。
稲葉三右衛門
夙(つと)に四日市港の壅塞(ようそく)を憂ひ力を築港事業に尽くし海浜1万4千坪を開築し溝渠(こうきょ)を穿(うが?)ちて漕輸(そうゆ)を通じ埠頭を築いて船舶を便にし為に一家の資財を傾くるに至る其績方に顕(あらわ)る仍(よ)って明治14年2月7日勅定(ちょくじょう)の藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を賜ひその善行を表彰す。賞勲局総裁 柳原前光・同 副総裁 大給 恒 明治21年1月5日
“郷土秘話 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史”の著者 大島重敬氏は、最後をこう締めくくっている。『為に一家の資財を傾くるに至る』の一句は、真情を知る者の肺肝を衝(つ)き、以って後人の範とするに足るであろう。
下の写真は、四日市市立博物館刊の“写された四日市”より写させていただいた
築港竣工後(明治17年)の堤防である。堤防が海面よりわずかに顔をのぞかせていて、三右衛門によって築かれた港の写真としては唯一のものとある。
明治27年竣工の“潮吹き防波堤”に比べると確かに低く粗末なものと云える。
県が“未完成”の一言で片付けるのはもっともと云えるが・・・ エピローグにつづく