ここまでの築港の歴史をたどってみる
昭和3年 昌栄橋北詰めに完成した三右衛門像
明治6年 9月 三右衛門の手で起工
明治7年 9月 県による継続の説得ありこの時 埋立九分完成
明治7年10月30日 内務省より土木賦課金 築港税の請求
一時中断
明治8年 1月 県による工事着手の通達
明治9年 3月 三右衛門 大坂高等裁判所へ上訴
明治9年12月 伊勢暴動
明治11年6月 4日 三右衛門敗訴 内務省へ申し出る
明治11年9月20日 内務省来四 調整案出る
明治13年3月15日 三右衛門による再開の起工式
三右衛門 明治14年から借地料を徴収
明治17年5月 港完成
明治20年 借地収入は4千円、三右衛門 半分を債務返済にまわす
明治18年10月24日 三右衛門が県に提出「四日市両波止残業仕様概算書」・「四日市港新開地残業仕様概算書」
明治17年 三右衛門の造った港
県のホームページを再掲載する
明治17年6月の議会で、四日市築港事業が政府直轄となるよう請願の是非を問う。岩村定高県令は「築港ノ計画未タ定マラサレハ」と発言。「稲葉の失敗」という見方もあった。
岩村県令は四日市港の欠点を指摘。1つは波止場と避難場所がない。総工費50万円はかかるが三右衛門の築港は工費総額が7万円程度であった。三右衛門はいったん工事を中断して残務を政府管轄事業に期待し、動静を見守った。
4万6千平方メートルの埋立地は、三右衛門の私有地。明治14年から借地料を徴収、明治20年ごろの借地収入はおよそ4千円。でその半分を築港工事の債務返済に充てた事実がある。 (県史編さんグループ 石原佳樹)
稲葉三右衛門の「夢」未完?-直後に県が築港事業構想 (mie.lg.jp)
明治27年完成の防波堤
此処で明治11年6月の内務省より出た調停案を列記する
・工事は、県が指導監督して稲葉三右衛門が施行する
・埋立地の地券は速やかに公布し、県は、徴収保管は止める事。
・今までの工事の費用は両者の負担として、現状のまま稲葉が工事を引き継ぐ。
・波止場完成の折には、港を公共のものとする。
・工事は3年以内で完成させ、見積金額以内で納める事。
結審後、三右衛門は引き続き工事を継続した。それまでの工事費用は両者負担となったのか?その後、残された工期は3年となり当初の見積金額で施工せよとなっている。
稲葉三右衛門翁は、この段階で費用と工期は不十分と考えていたのか?
現在残る稲葉家の土地は、北納屋の住居のみである。 おわり
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