昭和30年代
三和商店街は戦後 本町の一角に出来た。国鉄四日市駅のすぐ北側にあった。(四日市の今昔 樹林舎刊)
三和商店街と描かれた下には元気屋、右隣りには丸武家具店が入っている。看板の奥にアーケード付きの商店街が並び、居酒屋やバーが建ち並んで賑わっていたが、やがて繁華街の中心は近鉄四日市駅周辺へと移っていった。
10年ほど前の三和商店街 建て直しの課題が出ていた
昭和43年の地図
現在、7割ほどの取り壊しが進んで駐車場になっている。問題になっていた頃、近鉄不動産の土地が三和商店街の一角にあることを聞いた。下は大正15年のマップ。たしかに”四日市鉄道会社”の建物があったようだ。
商工会議所刊の本から、面白い記事を見つけた。そうだったのかと 思わせる・・・
昭和30年11月、近鉄は海山道、四日市(国鉄)、諏訪駅と市街地を縦断紆曲していた路線を、直線的に短絡化する工事を開始した。
従前の路線は、旧伊勢電気鉄道の路線をそのまま使用していた為、スピード化のほか都市計画上、交通円滑化の上で様々な障害となっていたが、短絡化に伴って国鉄と近鉄との駅舎分離による連絡不便と、国鉄駅周辺の商店街対策などもあって、四日市商工会議所では、国鉄四日市駅の民衆駅構想など、その対応策を関係当局に要望した。しかし、地元商業者優先の立場で構想された民衆駅構想は実現困難となり昭和35年4月、現在の駅舎が完成した。近鉄の路線短絡化と新四日市駅舎は31年9月に完成している。 四日市商工会議所刊“目で見る四日市の100年”より
民衆駅構想が進められて その一部でも実現していたら 現在の本町商店街はどんなだっただろうと想像する。