諏訪神社と諏訪公園は、オラが幼少時の遊び場であった。幼稚園が公園内にあったことも大きな要因である。帰宅すると神社へ走る。必ず友達がいた。おっちゃくい松永兄弟は、神社拝殿の屋根へ登った。ついでに正ちゃんのシャツの中に幼虫を放り込んだ。お腹に入った幼虫は白い汁を出して潰れた。
四日市の産土神である諏訪神社は、鎌倉時代の創建と伝えられています。空襲で焼失する前の境内が描かれています。鳥居の向こうの堀は泗水八景の一つ「御手洗(みたらし)の満水」と呼ばれた場所です。水谷百碩 四日市十二景より 昔は川になっていて、当家の真ん中を通り阿瀬知川へと流れていました。
諏訪神社の境内社 山津見神社に向かう石橋を描いています。緑が生い茂り、無数の鳥居が建ち並ぶ光景は、今も見ることができます。人影のない境内と杉の木陰、鏡のような水面が、昼下がりの静かな雰囲気を描き出しています。出口百碩 泗水十二景より
本日の 雨の石橋 この池は水の流れはなく 底は泥で底なし沼状態である。池の亀をつかみ出して、石でつぶす輩がいた。
大正期の絵はがき。右に茶店のようなものが見える。手前に立つ“県社 諏訪神社”の碑はずいぶん立派そうだが、前に居るのは子供である。この碑は 現在に至っても存在するのだろうか? 拝殿は空襲時どうなってたのだろうか? つづく
岡野繁松先生が描いた、戦前の諏訪神社と諏訪公園 鳥居前はずいぶん広々していた。