昭和17年5月18日(月)晴れ
伊藤君と公用で外へ出る。郵便局の用件を済ませてから、塩浜の町の中を少し走る。近頃に珍しい饅頭を売っている店を見つけた。一人に一袋というのを二袋ずつ買って戻る。庶務のみんなに出してやる。今日僕の夏服が出来る日だ。気に入ったものが出来ていた。42円也支払う。給料の1か月分に近い。
昭和17年5月30日(火)雨のち曇り
今日も召集令状は来なかった。定時退庁して四日市劇場へ映画を観に行く。少し遅れて服部君らが浴衣姿で見に来ている。映画が終わって、雨のやんだ町を諏訪まで歩く、戦勝祈願売り出しをしている。諏訪神社も夜詣り人で賑わう。
昭和17年7月14日(火)晴れ
正午から精製部の食堂で防諜映画「明暗二街道」を見る。部屋へ戻ると、県の特高課長から防諜に関する講義があった。話のうまい警察官である。
昭和19年 北町 第1国民学校の講堂で児童に非常時の救護訓練が行われた 四日市の100年より
昭和17年7月16日(木)晴れ
前から姉に頼まれている、赤ちゃんの頭の上に吊るすゼンマイ式の花の風車、今はどこの玩具屋を訪ねても、売っていない。戦争でセルロイドは火薬の原料になるので、製造禁止になっているらしい。お昼に、服部君の母親から会計部へ電話があり、田舎の玩具屋で1個見つけてくれたらしい。帰りに、取りに寄って下さいとのことであった。購買所でビールを2本買って、夕方服部家を訪ねる。
昭和17年7月21日(火)晴れ
昼の休憩音楽に「湖畔の宿」が流れる。タイピストらが喜ぶ。これはこの時期、勇気ある放送である。
昭和17年7月27日(月)曇りのち晴れ
購買所の前田君が、石ケンを5個くれた。貴重な贈り物。先日チケット発行名簿を作ってやったお礼だそうだ。
昭和17年7月28日(火)晴れ
本日は給料日。提示で退庁して「うなよし」でうなぎを食べた。町はまだ明るい。世界館へ入る。1年半ほど前、名古屋で観たエノケン主演の「孫悟空」を上映していて懐かしかった。戦争以来、町が暗くなって陰気であるが、暑い夜で夕涼みの人出は多い。
昭和17年8月26日(水)晴れのち雨
部内でソロモン沖海戦の実情が話題になっている、鬼頭さんらは、このニュースはおかしい、と密かに言う。私もそう思う。広橋中尉にそっと聞いてみた。「僕にも真相は分からんよ。平田君も知らない方が良いよ」と、言葉を濁す。
昭和17年9月4日(金)晴れ
赤い紙の召集令状が、実家の方に来ていた。父はもう寝ていた。令状をポケットに入れると富田浜に戻る。満天の星空を仰ぐ。今年の秋はどこの空で、この星を仰ぐことになるだろうか。
昭和17年9月9日(水)晴れのち曇り
ガダルカナル島に上陸してきた米軍は、日本軍を上回る兵力であると伝えられている。波打ち際で迎え撃つ日本軍は、火力にも限度があり大変な苦戦をしていると感じとれる。
昭和17年9月10日(木)晴れ
富田一色の飛鳥神社で。今回応召者の祈祷をしていただく。6時過ぎ服部君さんが訪ねてきた。連れ立って四日市へ行く。この子と知り合って1年8カ月、いろんな事があった。大橋写真館へ入って写真を撮る。出来上がるのは私が出発してからになるので、彼女がもらいに来る。
北町 昭和19年 札ノ辻で消防団員が応急架橋の実演が行われた。完成した橋をオート三輪が渡り 強度を確かめた
昭和21年6月、復員したとき、燃料廠は夏空の下に廃墟として残っていた。しかし再開するはずの服部さんは、すでに四日市には住んでいなかった。
戦争が終わって5年目、四日市でみなと祭が催された。昭和25年夏のことである。私の作った詩がコロンビアからレコード(上原げんと作曲、霧島昇歌)になって出た。(昭和16年6月「金雀枝」7月号で投稿された歌詞が掲載となっている)
みなと音頭 平田正男 作曲
一.春は港のかもめに 問いな
今日の入船 どこから着いた
白い船々 迎える朝は
あの娘この娘も いそいそとヨイ
ヨカ ヨイヨイ 四日市
二.諏訪の社に お詣りすませ
ゆけば花さく ネオンがまねく
粋なゆかたの あの娘は誰か
ちょいと見染めた 宵もあるヨイ
ヨカ ヨイヨイ 四日市
<後記> 平田正男さん 戦争下を知るという 貴重な記録を残していただきました。厚く御礼申し上げます