明治17年、稲葉三右衛門の手により四日市湊が完成。四日市〜東京間の定期航路船も多くなり、すでに明治15年には汽船の入港724隻、出港740隻にのぼり、明治22年には特別輸出港、明治30年には特別輸出入港に指定された。
このような港勢の伸展に伴い、三右衛門が築造した旧港だけでは船舶の入港に応じきれず、かねてから新港開さくの計画がしばしば取り上げられたが、多額の経費を要するため容易に実現しなかった。すなわち明治17年には岩村県令が沖野技師の案により170万円の計画を立て、明治30年には内務省雇水理工師デ・レーケの案により310万円の計画、
デ・レーケによる港の模型
明治32年には小倉知事が内務省 原技師案による680万円の計画を策定したが、いずれも財源難で着工できなかったのである。(四日市市制80周年記念誌 四日市のあゆみより)
明治44年 湾曲した堤防の根元に燈台が立つ
この間、明治22年の暴風雨で港は大きな被害を受けています。碧南の服部長七は、セメントが高価だった当時、土と石灰を練り合わせた人造石を発明。人造石工法を使って港の改修工事を行いました。
明治19年完成した燈台(大正期撮影)
明治27年 潮吹き防波堤
これが現在に残る、明治27年完成の湾曲した潮吹き防波堤と南の直線防波堤です。潮吹き防波堤は高低差のある二つの堤を平行に並べ、内側の高い包みに五角形の水抜き穴を持つものです。低い堤で和らげられた波は、高い堤で受け止められ、溝に流れ込んだ後穴から排水されるという構造です。波の威力を和らげる効果を持つこの防波堤は、その独特の構造から潮吹き防波堤と呼ばれました。(CTY放送 刻 〜三重北勢絵巻〜)