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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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四日市漫歩マップ⑳諏訪公園

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四日市市史研究 第11号 “諏訪公園むかしといま”椙山 満 より

町の中心部にあり、東海道に面して建つ“諏訪神社”。境内の広さが、明治3年までは1088坪あった。明治38年の日露戦争の戦勝記念として神社裏の田圃を埋め立てて公園が開設され、詔勅「能く国家の光栄を無彊(むきょう)に保ち」から因んで“保光苑”と名付けられた。当初は1206坪の神社所属の公園であったが、明治41年四日市市有に変更された。

保光苑

市は、社殿裏の池を改築して畔に藤棚を設けて憩いの場とした。大正3年、天皇御大典記念として1355坪に拡張して“諏訪公園”と改称し、同時に市立図書館と演武場(戦後 四日市幼稚園)、小動物園、鳥の家が次々と設けられていった。

旧図書館

旧図書館 閲覧室の様子

池は北から南への細長い泉水で、北端の池の中に円形の島があり、そこには神社境内の堀川に立つ燈篭と同じものが据えられていた。市は池の周りを石垣積みにして琵琶湖を模した。池から流れ出る水は、石橋の下を細くなって南下し、伊勢電鉄 諏訪駅ホームの下を斜めにくぐりぬけて、浜田で阿瀬知川に流れ込んでいた。

図書館手前に燈篭が立つ

昭和になってこの池の北端に円形のドームがつくられ、楽しそうに浮かぶ鴛鴦(おしどり)と一緒に一羽の哀れな鶴が居た。金網から餌を貰おうと出したくちばしの上半分を、誰かが鋸で切り落としたのである。深い餌壺からしか食べられない鶴がその後どうやって生きていったものか、私が中学生の頃の諏訪公園での最も痛々しい思い出となった。

昭和4年 伊勢電鉄は、津新町から諏訪駅を通過して桑名まで開通、社長の熊澤一衛は昭和天皇御大典記念事業として最新式鉄筋コンクリート建ての図書館を、諏訪公園の木造図書館 南側に図書二千冊と共に寄贈した。玄関頭上に皇紀2588年と浮彫りの59.6坪の堂々たる建物で、階下は閲覧室と書庫 事務室、階上は講堂、控室、貴賓室になっており、新館と木造の旧館は渡り廊下で繋がれており、旧館は小学生、新館はそれ以上の学生や一般人が利用していた。

現在 南部丘陵公園に移設されている市民壇

昭和9年、地元の実業家 村山清八により公園西側に市民壇というステージが建設された。市の中心部に公会堂のなかった時代(公会堂は千歳町に建設されている)の文化行事や催物の野外ステージに使われたが、特に目立ったのは、昭和11年、千歳町埋立地で開催された“国産振興四日市大博覧会”の期間中 夜7時から9時まで、県下各地の芸妓舞踊や郷土芸能が披露され(昼は博覧会会場で演じられていた)、市民と共に、市内に滞在する外来客の慰安に供しました。(市民壇の目的は、千歳町の公会堂を意識して建てられたのでしょうか?夜の賑わいから博覧会への期待が高まったことでしょう)

現在の諏訪公園(池のあったところ)

9月の神社祭礼とお正月松の内は、公園の西角にサーカスや見世物がかかり、アセチレンガスの灯火ともる夜店が並んで子供たちをウキウキさせたり、5月の陽光さす藤棚の下で、池の花しょうぶを描く授業があったり、夏休みには市民壇でラジオ体操が開かれるなど、遠い思い出となった。

昭和5年 岡野繁松氏作成

昭和19年が暮れ、日本本土に空襲が激化し始めると諏訪公園西側の松林の下に防空壕が幾つも掘られた。昭和20年6月18日払暁、焼夷弾の雨が四日市に降り注ぎ防空壕に非難した殆どの人が亡くなった。神社も公園も焼け落ちたが、図書館の建物だけは戦火をまぬがれ、直ちに市民病院の外来診療所として活動を開始し、公園西の旧津田病院跡地に、木造の市民病院が開院する昭和24年まで、四日市市民の医療はすべてここで行われた。

お正月と9月の催事は、戦後も続けられ、諏訪公園は殆どの四日市市民が思いを寄せる憩いの場であった。


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