“四日市に戦争があった”四日市空襲を語りつぐ会 編(四日市空襲のパート2です)
空襲の日から「やけだされっ子」の名前が付き、空襲を受けた子、受けない子の差はあらゆるものに出てきていました。その度に、くやしさ、悲しさのこみ上げる毎日の繰り返しでしたが、それでも夜となれば、間借りの部屋で、家族全員が顔をそろえた時は、いささかの笑いも漏れるようになり、とにかく命拾いしたことの実感が満ち満ちていたように思われます。(中略)一言に云い尽くせない戦後の数年間が私たちに与えた代償は、あまりにも大きかったと思います。むさぼりたいほどの欲求を必死に抑えて流されず来たような期間でした。ほんのわずかでも気力を緩めようものなら、たちまち心の中までも貧しくなり、醜くなり、転落していった人たちも多かったと後で聞かされました。(K子さん 当時 三和町 国民学校4年生)
戦傷者にとって「あまり語りたくない、思い出したくない」と思っていても、自分の躰を見ていると奇異な視線やいじめなどつらかったことなどを思い出さずにはいられません。(K子さんは7歳の時、油脂焼夷弾を受け全身やけどとなって気を失いました)異変に気付いた母は、防火用水の水を何度もかけてくれたようです。頭から背中に流れる水がとても冷たかったことを覚えています。母は人づてに類焼を免れた病院のあることを知り、近所の人に手伝ってもらって病院へ行きました。夏に向けての生活は地獄のような毎日でした。朝、治療してもらっても、昼頃には、傷口にウジ虫が入り込もうとしてチクチク痛く、生死の境目をさまようことが何度もありました。戦傷者にとって誰もが背負う日々の苦しみや、人の視線が体の傷に向けられることの心の傷みは、今日まで続いています。いま私の手足があるのは、医師から両手足の切断を宣告された時に、強い意志と信念で手厚い看護をしてくれた母のお陰だと感謝せねばなりません。(当時 7歳 栄町)